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池田聡「倉庫BARにて」 [音楽]

池田聡「倉庫BARにて」
作詞:松本一起/作曲:佐藤 健/ 編曲:奥 慶一  
アルバム「missing」より

二十代前半の男女が、子どもの名残のような、本物の大人の入り口のような恋をしている。

女には好きな人がいる。でも片想いだ。
その女に想いを寄せる男がいる。

80年代半ばの東京の夜は明るかった。
季節はいつなんだろうか。
夏のような気もするし、春のような気もする。

紀尾井町の坂を下る。
右手にニューオータニ。
そうだ。
季節はきっと春だ。
長い時間をかけて膨らんだつぼみがようやく解け、
一つ二つ開いた花を見かけたばかりだったのに、
清水谷公園を越えて行けば、池に伸びた枝は、たわわなほど満開の桜だ。

まっすぐ歩いて左に入る。
赤坂プリンスの桜も見ごろ。

春の宵は色っぽい。

ロビーで待ち合わせた女は、振り向くと目が腫れている。
又泣いてたのかと男は思う。



どうしてわからない?
君はそのままで十分素敵なのに、どうして自分以外の人になろうとするの?

だってあの人は、私のことを好きになってくれないんですもの。
私じゃなくて別の人を、好きなんですもの。

傷心の若い女が焦れて言う。
決して怒らない男に八つ当たりする。
そのうち気持ちが高ぶって、又涙が出てくる。

どうしてそんなに彼をおいかけるの?
背伸びして違う自分を演じながら、自分の良さを消してしまうの?
そんな男は忘れてしまいなよ。

嫌よ。
だって私はあの人を好きなんですもの。
あの人じゃなきゃ駄目なんだもの。

―ぼくはずっと君を見てるのに

女は知っている。
今目の前に立つ男が、自分を想っていることを知っている。
それでも断ち切れない思いがある。
そして、目の前の男に傾く想いの間で揺れ始めている。



白夜のように、決して暮れきりはしない夜が続いた時代だった。
二十代半ばの私は恋をしていた。
それは片想いで、必死で追いかけた人は、けっしてこちらを振り向いてはくれなかった。

池田聡の声は、程よく甘く、暖かかった。
ただの片想いだったのに、この曲を聴いていると、
まるで自分を想ってくれる誰かがいるような気がした。

「missing」に収められたこの曲を歌う彼の声は、明らかに若い。
青年の声だ。
私はその時代、まだ若い女だった。


腰まで伸ばした髪をソバージュにした女の子と、やけに肩幅の広いソフトスーツを着た男の子が街に溢れていた。

誰かが誰かを追いかけて、決して向き合うことのない恋の「輪唱」。
池田聡の歌は、まるでその輪の中に自分がいるような、
どこかに自分を見つめ思いを募らせる男の人がいるのだという
そんな夢を見させてくれた。

この歌の男女はどうしたのだろう?
女の子は、片想いの彼をあきらめて、目の前の誠実な男の子と
もしかしたら結婚したのだろうか。

それとも二人とも、付き合うこともなく、いつか遠く離れてしまったのだろうか。


この曲は、都会の夜の池に映った月みたいに、揺らめきながら輝いている。
高速道路に煌く、無数のライトの川の流れみたいでもある。

まだ、未来が明るかった80年代。若かった自分。
その時していた恋。
その時の、街の匂いも風のそよぎも、すべてがこの曲に詰まっている。


なので私にとっての「倉庫LOFT BARにて」は、もうこれで完結している。
近年、別のアレンジで再販されたけれど、それは私にとっては違う曲である。
赤プリの巨大な建物は消えた。
二十代半ばの私も、デビューしたばかりの池田聡も、あの時代の空気も今は無い。
ただこの曲のイントロが流れ始めれば、時の神様がウィンクしたように
私はあの日の東京に、飛び込んでいけるのである。



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安全地帯「銀色のピストル」、作詞 : 松井五郎 作曲 : 玉置浩二 [音楽]

「銀色のピストル」
作詞 : 松井五郎
作曲 : 玉置浩二


玉置浩二にとっては、きっと歌うことは
息をするのと同じなんだろうなと思う。

しゃべることよりも、歌うことでの方が、
自分の思いや考えを、楽に表出できるのではないだろうか。


もう四半世紀以上も前のライブの様子が、youtubeにアップされている。
「安全地帯Ⅴ」の頃だと思う。
安全地帯が乗りに乗っていた時期だ。



この頃の曲で「銀色のピストル」という曲がある。
安全地帯にはおなじみの、松井五郎氏の作詞、
作曲は玉置氏本人である。


youtubeの中、二十代の終わりの頃の玉置浩二が歌っている。


この人は、むき出しの性器みたいな人に思える。

生命力に溢れ、いつも焦れており、すぐに拗ね、暴れる。
自分の中にある膨大な思いを扱いかねながら歌う姿は、
色気が擬人化したようだ。


歌唱力は群を抜いており、「秀でている」というレベルではなく
「天才」なのだと思う。

安全地帯のメンバーはまだ十代の頃、
お金を出し合って故郷に古い一軒家を借り、
来る日も来る日も曲を作ったり歌ったりしていたそうだ。

きっと心底、歌うことや奏でることが好きなんだろう。



「銀色のピストル」で、
男は惚れた女に焦れ、自分の想いに焦れ、
水から上がった若い魚のようにピチピチと跳ね返る。

お互いに想い合っているのにすれ違ったり、
かみ合わなかったり、
そんな恋愛のスパイスを、生真面目に味わって舌を焼いている若い男の
苦しむ姿が愛おしく可愛い。


この時代の曲はいい。

間奏は、果てしない草原で強い風に吹かれている気持ちになる。

広い広い草原、見上げれば青空。

風に吹かれて勢いよく雲が走っていく。

常に悲しい音が一つ流れ続ける。

強い風に煽られながら、心の中の炎は一段と燃え上がる。



この頃玉置氏は、本当に恋の最中に居た。

しゃべることよりも、書くことよりも、自分にとって一番楽な「歌う」ということで
彼は自分の想いを表出していた。



二十代三十代の玉置氏は、おもいっきりかっこつけているように見える。

それが途中から、完全に脱力する。

どちらの彼も良い。


彼にとって歌うことは息をすることと同じだから、
きっと歌わなければ死んでしまうのだ。
歌うことが一番楽で、心地よいのだと思う。

天才の歩みは凡人からみるととても奇異なのだが、
玉置氏にとってただ一つ変わらないことは、
「歌うことは生きること」という、シンプルなことだろう。

天才は、そのように生まれ落ちたのだ。

久世光彦氏は、
「玉置浩二はいつも歌っている。電話に出ても歌っている」と書いた。

多分それが、彼にとっては一番楽なことなのだろう。







謎解き「テネシーワルツ」 [音楽]

「the Tennessee waltz」
作詞:P.W.King・R.Stewart
作曲:P.W.King・R.Stewart


あの日あの時、違った方を選んでいれば
その後は大きく変わったはずだったのに

そんな「その日その時」が、きっと誰の人生にもあるのだと思います。

偶然見つけた古い友人を、彼に紹介した。

ただそれだけのことが、この歌の女の人の人生を変えました。

「恋人と"テネシーワルツ"を踊っているとき古い友人を見つけ、
恋人に紹介した。
そうしたらその友達に、恋人を取られてしまった」
というのが、私が目にしてきた解釈でした。


でも―。

どうもそれだけでは、この曲がこんなにも聞く者の胸を締め付ける理由に
乏しいような気がしていました。


恋人とテネシーワルツを踊っているとき、友人に彼を盗られてしまった。
恋人とテネシーワルツを踊っているとき、友人に彼を盗られてしまった・・・



     I was dancing with my darling
     To the Tennessee Waltz            


     私は大好きなあの人とダンスを踊っていたの

Dance to ~ = ~に合わせ踊る
という熟語です。

でも私は、
I was dancing with my darling で、一旦、文章は終わるように思います。

To the Tennessee Waltz
これは、前置詞to +名詞で時の副詞となり
テネシーワルツに変わる時、
かかっている曲が、次のテネシーワルツに移るその時
と、解釈しました。

     I introduced her to my loved one 
     私は、彼女を、自分の恋人に紹介しました。

彼を、旧友に紹介したのではありません。

多分、偶然見かけた旧友に手を振り、こちらに呼び寄せ
大好きな恋人の前に立たせ、
「こちら、古い友人の○○さんなの」と、
彼に言ったのでしょう。

歌の主人公は、自ら彼女を彼に近づけたのです。


そして二人は始まった曲に合わせて踊り始めます。
その曲は「テネシーワルツ」です。


     I remember the night  
     And the Tennessee Waltz
この文章の時制は「単純現在形」。
日常習慣的に繰り返されている動作を表します。

つまり歌の主人公である彼女は、
今でも、あの夜と、テネシーワルツをよく思い出しています。


     Now I know just how much I have lost.
     今でこそ、私は、自分がどれだけ多くのものを失くしたかが分かる。

     Yes, I lost my little darling   
     そう。私は大好きなあの人を失くしてしまったの。

     The night they were playing          
     あの夜、二人は踊ってた。


何を?
そう、ダンスを、です。

二人が踊った曲は?
それこそが”テネシーワルツ”だったのではないでしょうか?


ダンスホールなり酒場なりで、ダンスのために演奏される曲は
一曲一曲変わっていくでしょう。
Aの曲、次はBの曲・・

もし旧友に気づかずに、あるいは気づいてもそのままにして彼に紹介しなければ、
主人公は大好きな人と「テネシーワルツ」を踊っていたはずでした。

けれど彼女は、「テネシーワルツ」を旧友に譲った形になりました。

踊る二人を見ながら、主人公は確信します。
二人は恋に落ちました。


「テネシーワルツ」とはどんな曲なのでしょう?

そもそもこの曲のタイトルが「テネシーワルツ」。
その中に、同じ名前の曲が出てくるという入れ子状態です。

その曲のことは、聴く私たちは想像するしかありません。


     And while they were dancing         
     My friend stole my sweetheart from me 


     大好きなあの人が、古い友達を見つめています。
     少し照れくさそうで、でもとてもうれしそうです。
     彼女を見つめる目が、きらきらしています。
     ちょっと格好をつけています。
     彼女の背中に回した手が失礼にならないよう、
     緊張しているのが分かります。
     だって私は、彼の恋人なのですもの。

     古い友人は、すっかり大人の女の人になっていました。
     可愛らしい人でしたが、いつのまにかずいぶん垢抜けています。
     彼のことを見上げ、やはり彼女もとてもうれしそうです。
     見かけたのはついさっきなのに、
     彼女の肌は、そのときよりも何倍も艶を増しています。

     テネシーワルツが流れています。

     そこで踊るどのカップルよりも、二人はお似合いでした。

     まるで穏やかな波に揺られているように、
     二人は滑らかに揺れています。

     私は全て分かりました。
     私はとんでもないミスを犯しました。

     二人は恋に落ちました。




あくまで、私の解釈です。
「それは文法的に間違って云々」
「アメリカの時代背景を考えると云々」
多々、ご意見ご指摘はありましょう。

私はあの日「テネシーワルツ」を踊ったのは、
主人公の女の人と恋人ではなく、
恋人と、彼女の古い友人だと思うのです。

だからこそ、主人公にとって「テネシーワルツ」は忘れられない曲に
なったのではないでしょうか。
美しい曲「テネシーワルツ」。
あの時、友達を彼に紹介したりしなければ・・

彼女にとって「テネシーワルツ」は、まるで男女を結びつける魔法のような
そんな力を持った特別な曲のように、感じられたのではないでしょうか。

あの夜「テネシーワルツ」を踊ったのは、
"わたし"と彼ではなく、
古い友人と、大事な大事なあの人だったように、思います。




「the Tennessee waltz」あの日彼と"テネシーワルツ"を踊ったのは [音楽]

「the Tennessee waltz」
作詞:P.W.King・R.Stewart
作曲:P.W.King・R.Stewart


私は大好きなあの人とダンスを踊っていたの
曲が終わり、テネシーワルツに変わる時
古い友達を見つけたの
彼女をあの人に紹介し、
二人はワルツを踊り始めた

二人が踊る間に、
あの子は彼を、
私から盗っていってしまった


私は今でも、あの夜とテネシーワルツをよく思い出す
今になれば、どれだけ大きなものを失くしたかがわかる
そう、私は大事なあの人を失くしてしまったの

あの夜、
柔らかなライトとワルツの中を
たゆたうように二人は揺れてた

テネシーワルツの魔法にかかったように
見詰め合って踊る二人を見ながら
私はわかった
二人が恋に落ちたことに


あの日あなたとテネシーワルツを踊ったのが
あの子じゃなくて私だったら、
あなたは未だ、私の傍に居てくれたんだろうか

テネシーワルツが聴こえる
どこまでも美しい
あの日のワルツが聴こえる



中森明菜「眠れる森の蝶」 [音楽]

中森明菜「眠れる森の蝶」
作詞 : 川江奈美子
作曲 : 江上浩太郎


現実の世界では愛し合えない男女が出逢った。
二人は現実ではない世界で生きることにした。
二人にとっての、自分達だけの世界。
それが「眠れる森」だ。
おそらくは彼女の部屋であるその森で、二人は時間を過ごし、睦み合った。

男は生きることに少し疲れていて、眠れる森にやってくるときは、
現実世界の記憶は置いてきた。

二人以外誰も知らない場所。
二人以外誰も立ち入れない場所。


女は永遠にその森で生きてもいいと思った。

魔法をかけられたシンデレラ。
王子に見つめられながら、王宮でダンスを踊る。

12時の鐘が鳴れば、シンデレラにかけられた魔法は解けてしまう。

でも此処は大丈夫。
此処にいる限り、私たちは現実の辛さから隔てられているのだから。


けれどある日、彼女は気づく。
彼がこの森を出て行こうとしていることに。



アルバム「Destination」。
中森明菜は、それまでと全く違う次元に立った。

デビューして、上り詰め、そして自らが起した事件があった。

それ以降、中森明菜がどんな曲を歌っても、彼女が起した事件のことが
大なり小なり思い浮かんだ。
もう本人は自分の中で、すっかり気持ちの整理をつけているのだとこちらも思うのだが、
それでも小さな染みみたいに、彼女からその影を切り離すことは、
少なくとも私には出来なかった。


けれどこのアルバム「Destination」で、中森明菜は、その事件の影を完全に切り落とした。

歌謡曲とかロックとかバラードとか、そういう括りは全く必要ない。
なんだかすごい歌手が登場したと思った。

彼女の声はハスキーに変わった。

以前なら洪水のように溢れ出ていた感情は、彼女の中に留められ、
それでも彼女自身から染み出てくる。
もしくは、一筋二筋流れる涙の様に控えめに出てくる。

押さえられているはずなのに、歌に登場する女の人の悲しみや、心の揺れが、
どうしてこんなに伝わってくるのだろう。

淡々と歌われているのに、息遣いや、フレーズの
始めや終わりのほんの短い時間に、
彼女の心がこちらの心に切りつけてくるようだ。



あの日から。
中森明菜は、時に荒んだ生活をし、マスコミやあらゆるものと対峙し、
歌いながら今日を明日に繋いできたんだろう。

そして此処に辿り着いた。

ああ、なので「Destination」なのだ。
「Destination」は垢抜けたアルバムだ。

悲しみや思惑を歌っていても、こちらに纏わりついてこない。

曲と、歌い手と、聞き手の間の距離が絶妙である。


中森明菜は、此処まで来たんだな。



「眠れる森」の魔法がもうじき解ける。

此処にいれば現実は見えないはずなのに、
忘れていた現実を突きつけられる。


これは夢なのだと、御伽噺なのだと、本当は知っていた。
けれど夢の中で、御伽噺の中で生きようとしたのだ。
現実世界の記憶を置いて此処に来てくれていた様に、
こんどは此処での記憶を置いて、あなたは現実に戻っていくのか。
ならばいっそ私を殺めてくれないか。


リズミカルな電子音はまろやかで、夜に瞬くネオンサインのようだ。
軽く弾みながら、異界に私たちを誘う。

其処は永遠に暗闇のはずなのに、
眠れる森に、朝の光が射そうとしている。




中森明菜「紅夜―beniyoー」 [音楽]

中森明菜「紅夜―beniyoー」
作詞 : 林桃子
作曲 : 林田健司


固い蕾も膨らんでゆく蕾も、少しずつ開かれていく時も、
花はいつも美しいけれど、ただ枯れていく様だけは哀れだと思っていた。

春の夕暮れに、まるで内側から灯が灯っているように輝く木蓮も、
花びらが開ききり、ところどころ茶色く変わり張りを失くしていく。
その花びらも、一枚一枚落ちていく。

ここ数年、そんなところにも惹かれるようになった。


中森明菜の音域は、二十代の頃と比べて二音くらい低くなったのではないか。
テレビに出た際、「おうどんを食べる時、一口ごとに一味唐辛子を盛り上がる程かけて食べる」と言っていたが、そんなことを続けていれば声も枯れるだろうと思うような声である。

ちょっと昔っぽいリズムとメロディ。
「TATOO」を思い出す。

あの曲の主人公は若い女だ。
陶器のような肌を持っている年頃だった。
男達の卑猥な視線を浴びてもそれを跳ね返して
孤高に生きる女がいた。


「紅夜―beniyho-」の女は年増なのである。
声も太く、低くなっている。
陶器の肌は艶を失くし、木蓮ならば開ききった花弁の色が変わっていく頃だ。

     いつかの少女のように
     澄み切った心なくしていくとしても

そんな時代もあった。

若い時は永遠には続かない。
頂点に居られるのもまた、永遠ではない。


     ふとしたことで塗り替えたマニキュアに
     すべてを乗せて

     あなたのために
     紅く咲かす 紅の夜

この部分が歌謡曲っぽくていい。


この曲は年増女の悲哀だ。
ふてぶてしくも生き延びてしまった女の
一途さと哀しさがある。


もうそんな歌い方はしないのかと思ったが、
中森明菜はビブラートをいっぱいに使い、
声量も思ったよりずっとある。

じっと聴き入れば一つ一つの言葉に魂が込められて
ああ、この人はやっぱり歌が本当に上手いんだと思い知る。


     手のひらでさえ
     もてあそばれる私でいよう枯れるまで・・・

惚れた男は自分より若かったのか。
結婚など初めから望んでいないし、
もしかしたら自分以外に女がいるのかもしれない。
自分の容貌がどんどん落ちているのは知っている。


     ふとしたことで塗り替えたマニキュアに
     すべてを乗せて

     あなたのために
     紅く咲かす 紅の夜


もしかするとこれは、彼女の最後の恋なのかもしれない

こういう歌を歌う前に、多くの歌手は辞めてしまう。
若さを失っていく女の哀しみや、
それでもまだ男に惚れてしまう愚かな可愛さなど
歌ってくれるひとが見当たらない。
街にはお遊戯会みたいな歌声ばかり流れるようになった。

中森明菜は歌い続けるだろう。
中森明菜が歌を選んだのではない。
歌が彼女を選んだのだ。




中森明菜「Blue On Pind」 [音楽]

中森明菜「Blue On Pind」
作詞 : 三浦徳子
作曲 : 国安わたる


「Liar」のB面。
「Liar」は孤独を歌った曲だったが、この「Blue On Pind」も又、孤独の曲である。
中森明菜は本当に孤独がよく似合う。
「Liar」は広い空間で、夕方の風に吹かれているような印象だった。
こちらの曲は雑踏の中の孤独である。

人ごみの中で、別れた男を思い出し、突然涙を溢れさす女。
花屋の店先でふと足を止め、自分のためだけに花を一輪買う女。

タイトルの様に、曲調は短調と長調の間を揺れる。
曲の中の女の心も不安定である。

ただ揺ぎ無いものは、彼女が孤独であるということ。
そして、彼女が絶望しているであろうこと。

絶望は陰鬱ではない。
曲の中の女はきっと美しく、化粧を施して髪を整えている。
こぎれいな服で街を歩く。

一見明るいと見間違いそうな彼女の心の中は、いつか希望を失くした。


     あなたの傘の中で
     濡れてしまった 
     心をもてあます・・

濡れてしまった心を庇うように、彼が傘をさしかけてくれたのだろうか。
その彼の大きな傘の中で、自分の心をてあますのだろうか。

多分違う。

庇護するようにさしかけられた彼の傘の中で尚、
彼女の心は濡れてしまったのだ。
彼の愛情と存在も、彼女の心を守ることはできなかった。


彼女は恨み言を一切言わない。
彼は自分を本当に慈しんでくれたし、そして、それでもどうしようもないことはある。
誰が悪いわけでもない。
なので誰のことも責められない。


彼女は孤独で、そして人生に絶望している。
けれど日々を生きている。

朝になれば床を離れ、身支度を整え、仕事にでかける。
他者と言葉を交わし、自分のすべきことをする。

時々笑う。
時々泣く。

希望があろうと絶望していようと、人は生きなければならない。
とにかく今日を明日に繋いで生きなければならない。



ただ、いっさいは過ぎていきます。
「人間失格」の中で、太宰治はそう述べた。


「Blue On Pind」の主人公である彼女も、今はただ、時の流れの中に身を浸しているように思える。
あらゆるエネルギーが流れ出て、ただ息をするだけで精一杯の、満身創痍のように思える。
それでも生きている。

     今夜は船出して
     明日にそっとAh, Ah
     抱かれる・・

ここに描かれた情景は、彼女が時の流れに身を任せ、今日を明日に繋いでいるように見えてくる。



ぽろぽろとしたイントロは、いきなり彼女の瞳にこみ上げて来る涙のようだ。
哀しい調べは長くは続かず、明るく変調しそうになる。
「あ・・」と希望を抱いても、変わったのは一瞬で
又もとの短調が続く。


     一番空に近い悲しみ

とは、どんな哀しみだろう。
少しおどけるように歌う彼女は、
雑踏の中、ときどき溢れそうになる涙の海に
一人漂い続けているように見える。
そして涙の海は盛り上がり崩れ、
光のあたる角度によって、
ブルーとピンクに揺れながら染まっている。



中森明菜「ジプシー・クイーン」 [音楽]

中森明菜「ジプシー・クイーン」
作詞 : 松本一起
作曲 : 国安わたる

休みの日は、ついついyutubeを見て過ごす。
中森明菜の「ジプシー・クイーン」を見る。

何方かがコメントで、「女性としても歌手としても最高潮のとき」と書いておられる。
まさしくその通り。
バレエのチュチュのような衣装。
大きく開いた胸元、肩、首。
まるで春の宵の木蓮みたいに内側から照り輝いている。
首元にアクセサリーは一切つけず、大振りのイヤリングとブレスレットがともにパールである。
剥き出しの腕はほどよく丸みを帯びている。それは頬も同じだ。
目じりは不自然な釣目になっておらず、優しげに垂れているのを、
天才的に上手なアイラインで切れ長にしている。
気づくとマスカラはつけていないようだ。
こういうところが明菜のセンスが良いところだ。
少し腫れぼったいまぶたはマスカラを施されないせいで幼さを感じさせる。
眉毛も薄墨みたいにぼんやりしている。
そのあどけなさ、緩みを保ったまま、きりきりと思いつめる恋の情を歌って
誰にもまねのできない色気と雰囲気を、彼女は持っていた。

この人の英語の歌を聴くと、「ああ、耳の良い人なんだろうなあ」と思うし、
発言を目にすれば、「心根の優しい、情に厚い人なんだなあ」と思う。

とても感受性が豊かで、いろいろなことによく気がつく人だから、
情緒を安定させておくことはしんどいだろうと想像する。
そもそも人並みはずれて感受性が鋭ければ、精神を安定させておくこと自体が至難の技だろう。
非常に良く切れる諸刃の剣を、生れ落ちたときから手にしていたのだ。



ここで歌われている恋人達は、今生で初めて出会ったのではなく、
生まれる前の国で深く深く愛し合い、その世だけでは愛し足りずに、
今まためぐり合って慈しみ合った。

それでも男女というのは不思議なもので、彼は彼女を残し、別の人のもとにいったのである。

生まれる前に愛し合い、この世で再び愛し合ったように、又生まれ変わった世界でめぐり合いたい。
いっそそれまで化石になって、思いを感じなくなってしまいたい。


残された彼女は、宇宙に一人取り残されたように孤独だ。

明菜には本当に「孤独」がよく似合う。


居場所を定めずに、土地を移り住んでいくジプシー。

前世、今生、来世と、時の流れをたゆたう歌の主人公。
彼女もやはり「ジプシー」なのだろう。

それは明菜とも重なる。



中森明菜がヒット曲を連発していた時と今と、ポップミュージックのセールスは
大きく変わってしまった。

私がいわゆる「AKB商法」について知ったのは、人よりかなり遅れてだった。

それじゃあ彼女達のCDが売れるわけだよ、と思った。

「その音楽を聴きたいからCDを買う」という時代ではなくなってしまっていたのだ。
否、もちろんその音楽を聴きたいのだろうけれど、
「握手ができるから」「自分の好きなメンバーに投票したいから」
そういったあれこれが、CD購入の理由になっていた。


こんな時代に中森明菜は、どうやって歌を歌っていくのだろう。

かつて歌番組で、中森明菜が歌う時間は「彼女が主人公の短い映画」のようだった。
表情も、髪型も、衣装も振り付けも、彼女の完成度は他の歌手とは全く違った。

慈しみ合った男の人が去った後の、体中をナイフで刺されるような孤独も、
男達の卑猥な視線の洪水を跳ね返すような強烈な強さも、
夜の街で死と隣り合わせに居ながら感じ続ける虚無も、
彼女はその幼い顔立ちと成熟したスタイルというアンバランスを保ったまま、
きちんと深みを持って表現していた。


時は流れ続ける。
中森明菜の上にも、時は平等に流れた。

丸みを帯びていた頬の線はもう無い。
少しとろんとした垂れ目がちの目元は変わった。
体は、とても痩せてしまった。


1986年前後の中森明菜は、今webの中で見ることができる。
この時の彼女に、リアルタイムで接することができたのは僥倖である。

愛おしい男と再びまみえることを願いながら、時空をさまよう「ジプシークイーン」は
歌の神様の寵愛を受け、それゆえに「歌うこと」から離れることを許されなかった
中森明菜その人に思えるのである。




池田聡「Blues」 [音楽]

「Blues」
作詞 : 小西康陽
作曲 : 小西康陽

池田氏のアルバムは、どれもそれぞれの世界を持っていると思うが、
この曲が入っている「至上の愛」はとても異質。
一言でいうと、スタイリッシュ。
メロディアスで叙情に溢れている今までの世界と一変する。

「Blues」は、上質なショートショートみたいな曲だと思う。


始まりはアカペラ。
エコーは全くかかっていない。

     君のいない毎日なんて不思議さ     
     君のいない毎日なんて悲しい

かぶさるようにリズムが刻まれ、一つずつ楽器が加わっていく。

彼女と別れた男の日常。

朝起きて、コーヒーを飲んで、時間を気にしながら髭を剃る。
昼間の情景、一人でとる夕食の情景。

それまでの池田氏の曲ならば、情感を込めて歌われるだろうところが
どこも、ある種無機質に進んでいく。

楽器が一つ加わるたびに、曲に厚みが増してゆく。

表面は変わらないけれど、内部で何かが変わっていく。


土の中にまかれた種。

長い眠りの後、暗闇で目を覚ました命が
光の方角に動き出す。


淡々と、感情を排除して歌われていくが、歌詞の無いアドリブを思わせるところだけ
急に生々しいほど歌い手の命を感じる。

不意打ちみたいに気持ちを揺さぶられると、又先ほどの情景が続く。

     君のいない毎日なんて不思議さ     
     君のいない毎日なんて悲しい

つまらなそうに部屋に帰れば留守番電話が2件。

クリーニング屋からと、彼女の友達。


     君のいない毎日なんて不思議さ    
     君のいない毎日なんて悲しい 
    そんなふうに思っていたのに

歌詞の無い、アドリブのハミング。

そして。

池田氏の吐息が入る。

楽器の演奏は続いている。

そこに重なる、吐息。

ああ・・
この人は、彼女の友達とつきあったんだ・・

リズミカルに続く楽器たちの競演。

彼と彼女の友達が行ったであろう行為。

二人の動きにつれて変わるシーツの波。

乾いた肌。

湿り気を帯びてゆく肌。

紡がれる吐息。


ハミングから吐息まで。
何の説明もないけれど、一組の男女が逢って、
そして睦み合ったであろうことが確信になる。


リズミカルなメロディーが奏でられ、
ぱたん、と本が閉じられたように曲が終わる。


まさに上質なショートショート。



池田聡「FIRST OF SEPTEMBER ―空色のバス―」 [音楽]

池田聡「FIRST OF SEPTEMBER ―空色のバス―」
作詞 : 大津あきら
作曲 : 鈴木康志


夕凪を知らせる最後の風が吹き、二人はバスを待っている。
彼女が乗っていくのは空色のバス。
二人は恋人どおしだった。
けれど彼女は、彼とは別の人に嫁ぐことを決めた。

道の向こうから空色のバスがくる。

「空色」はなんと可愛らしい色だろう。
ああ、そうだ。ブルーは花嫁のラッキーカラーだ。
彼女の幸せを約束するようにバスがやってくる。

凪は終わって波の音がする。

バスに乗り込んだ彼女の指を離せば、それが合図のようにドアが閉まり
二人の季節が終わってゆく。


9月の初め。
風と空気の匂いと陽の光に、二つの季節が一緒にいる。
やがて日が経つにつれ、夏が去って秋に変わっていく。

季節の変わり目のように、彼女の心の中にも二人の男の人がいた。

後から追いかけてきたはずの人が、いつの間にかしっかりと
彼女の胸に留まるようになったのだ。


繰り返し聴いているうちに、小さな疑問が浮かび
そして「ストン」と胸に落ちて来た。


     FIRST SEPTEMBER
     抱いたら つま先 震わせたね
     泣きながら


つま先の震えは、靴を履いていてはわからない。
互いに素足で抱き合うとき―

若い恋人達の一つの季節を爽やかに描いたこの曲は、
隠し絵のようにこんな違った一面を持っていたのか。

抱かれた彼女が、つま先を震わせて泣いたのはいつなのか?

二人がつき合い、初めて抱かれたときか。
睦み合いを重ね、高みに上っていったときか。
彼以外の人に嫁ぐと決め、最後の逢瀬のときなのか。

薄明かりの部屋の中、白く小さなつま先が震える。
彼の腕に抱かれた彼女の目からは涙が溢れ、きらめきながら線を引いていく。
つま先の、桜貝のような薄い爪が微かに光る。

47歳で亡くなった大津あきらという作詞家の、人気を支えていた力量を
思い知った瞬間だった。

明るいが切なさを含んだバラードは、池田氏にとてもよく合っている。
「なにも云わないで~NO APOLOGY~ 」「Dear Friend」「ポストカードと水曜日」「風の風景」「さよならよりもつらい別れ」。
どれも美しく、優しく、泣けてくる。


二人の季節の終わりを受け入れられなかった彼も、
やがてそれを受け入れた。

バスのドアが閉まり、見上げる彼に、彼女が小さく手を振る。

そこに彼は、今まで見たことのなかった彼女の決意を見るのだ。


神様がもしいらっしゃるのなら、自分の幸せではなく、誰かの幸せを祈る時、
その祈りを聞き届けてくださるような気がする。
彼は彼女の幸せを祈っている。

曲のイントロにも聞こえていたチャイムの音が聞こえてくる。
門出を祝うように響く。
そこに、イントロにはなかった小さな音が混じっている。
トライアングルの微かな音が、「早く早く」と急かす様に
澄んだ音を響かせている。

     FIRST SEPTEMBER
     抱いたら つま先 震わせたね
     泣きながら
     その涙を ひとつも残さず
     勇気に さあ早く 変えるのさ


幸せになるんだよ。
何も悔やむことは無いんだよ。
さあ、お行き。
幸せになるんだよ。


空色のバスが小さくなる。
彼は、彼女の幸せだけを祈っている。
なので大丈夫。
彼女はきっと、幸せに生きていく。




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