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荒川静香「トゥーラン・ドット」 [人]

バンクーバーオリンピックの終盤。少し乗り遅れた形で
女子フィギュアスケートが気になっていた。
youtubeで、浅田真央、キム・ヨナ両選手の演技を見た。

そしてふと「そういえば荒川静香・・」と思いつき、
トリノオリンピックの、金メダルを獲得した演技を見た。

感動した。

もしかすると、荒川選手のこの時の演技をフルで見たの初めてだったかもしれない。
何度も見た。

そして荒川静香という人にとても興味が湧き、インタビュー、特集番組など
web に upされている映像をずいぶんと見た。

特に興味深かったのは、金メダリストである荒川選手に、
スケートから心が離れてしまった時期があったということだ。

その彼女が、長野から7年後、トリノオリンピックまであと1年というときに
「どうせやめるなら最後に一度、1年くらいスケートにどっぷり浸かった時期があっても
いいんじゃないか」と思う。


どんな技もどんどんこなせるようになった早熟なこの選手に
「唯一、少し足りないかなあ・・というのがあるとすると、
想いを伝える・・表現力だったかなあ・・」と、かつてのコーチは振り返った。


トリノのフリープログラムを滑っていたときの彼女は、本当に美しかった。
滑り始め。
辛い過去の出来事から氷の心を持つようになったお姫様、トゥーラン・ドットをよく表して
表情はポーカーフェイスである。優雅だけれどクールだ。

そして、命をかけて自分を愛する人に出会ったお姫様の心がゆっくりと開いていくように
彼女の表情と演技は、豊に、情感込めて伸びやかなものになる。



「滑っているときは何を考えていたんですか?」
金メダル獲得後、問われた彼女はこう答えている。

「一つ一つの技のときは、その技が出来るようになった時のことや
教えてくれた人達のことを思いました」

「途中からは本当に気持ちよくて、このままずっと滑っていたいと思いました」

どこかで聞いたことがあるなあ・・と思ったら、
アテネオリンピック女子マラソンで金メダルを取った後の
高橋尚子選手の言葉だった。

42.195キロの途中。
高橋選手ともう一人の選手が、ぴったりと横に並んで走り続けた区間があった。
「どんなにしんどかろう」と思って見ていたのだが、意外にも高橋選手は
「あの時は本当に気持ちが良くて、このまま○○選手と一緒に
いつまでも走っていたい気持ちでした」と、答えていた。


トリノオリンピックの女子フィギュアでは、金メダル候補の外国人選手もいた。
何故荒川静香は、あんなにも伸びやかに、自分の力を存分に発揮できたのだろう。


これも彼女の言葉である。

「金メダルという記録に残るのもいいけれど、
”ああ、ああいう選手がいたね”と、人の記憶に残る滑りがしたかった。
人に想いを伝えられるような滑りがしたかった。
オリンピックというのは、人に何かを伝えるには最高の舞台だと思った」


私はスポーツに関しては本当に素人だ。
けれど素人だからこそ、感じ取れることがある。
どうやら「想い」は伝わるらしい。


いったい何が、金メダルを取れるか否かを分けるのだろう。
素人の私には想像もつかない厳しい練習を、
オリンピックに出るほどの人なら、皆続けているのだと思う。


バンクーバーで金をとったキム・ヨナは確かに魅力的だった。
コケティッシュだった。
ボンドガールである故、それは正しい。
某評論家が
「キム・ヨナ選手の背中は、女の自分が見てもぞくぞくするほどセクシーだ。
キム・ヨナ選手は、立ち姿でもどこかちょっと斜めにしている。
真央ちゃんはいつも真っ直ぐなのよね。少し斜めにした方がいいんじゃないかしら」
などと的の外れたことを言っていた。

斜めだとか真っ直ぐだとか、そういうことではないのだ。

トゥーラン・ドットの荒川静香は成熟した一人の女の人だった。


もちろん荒川静香は、金メダルを取るために1年奔走し、世界的に有名なコーチとも別れ
直前に曲目やプログラムを変えた。
それは金メダルのためだったはずだが、だがトリノのスケートリンクに立ったとき
彼女の目標は「見ている人の記憶に残る」方に、シフトしたのではないか。

天才少女と言われた彼女が、五つのときから二十年間培ってきたもの。
彼女を支えてきた何人もの人達。その人達の想い。

想いを込めて、その人達のことを胸に、丁寧に丁寧に全力で滑っていったとき
会場の人達は自然に拍手し、それは鳴り止まなくなり、スタンディングオベーションとなった。

そして、金メダルは彼女の元にやってきた。


私は素人だから、何かおかしなことを言っているかもしれない。

けれど彼女のスケートを見ていると本当に気持ちがいい。
何時までも見ていたくなる。

それはきっと、たゆまぬ練習と、そしてやはり彼女の想いが伝わるからだと思う。



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佐藤愛子 [人]


私の十代終わりからかなり長い間、この人の書いたもの、否、この人の存在そのものに
私はずいぶん助けられた。

佐藤愛子。

もう、八十代の半ばになられただろうか。



最初はエッセイから読み始めたのだと思う。

ユーモアに満ち溢れたその文章に、私は何度もゲラゲラと笑った。

特に面白かったところは、母の側に行って読んで聞かせた。

母が笑ってくれると嬉しかった。

少しでも母にかかる負担を、減らせるような気がした。



その頃は、愛子さんはまだまだ借金ネタを書いていて頃だ。

1960年代後半当時の2億という金額が、現在のどのくらいに換算されるのか
見当もつかなかった。

当時の配偶者の会社が倒産し、愛子さんはその借金をたくさん肩代わりした。

その少し後に直木賞を受賞する。

直木賞をとったことは彼女にとって大きな強みとなったが、そのときから
締め切りに次ぐ締め切りの、時間との長い戦いが始まる。


エッセイや、実体験を元にしたと思われる小説の中で、愛子さんは力を振り絞って戦っていた。

人に蔑まれたり、心を踏みにじられたり、どう言葉を尽くしてもわかってもらえなかったりしていた。

その頃は、私の人生の中で、とても厳しい時期だった。

あの頃に比べれば、今はずいぶん楽である。



私は小さな力を振り絞って、これも小さな力を奮い起こした母とタッグを組んで戦っていた。

後方援助は、小さな弟だった。

「佐藤愛子さんだって頑張った」
だから私も頑張れる― 
そんなふうに思った。


その当時、年の瀬の本屋で愛子さんのエッセイを立ち読みした。

来年の干支を取り上げており、雑誌社から「丁度一回り前の○○年の頃
佐藤さんはどんな状況でしたか?」と質問される。

十二年前と言えば、別れた亭主の残した借金を返すために
今日はあそこで講演、明日はテレビ局で人生相談の収録といったふうに
毎日必死で働いていた頃だ

そんなふうに答えた愛子さんに、記者は言う。

「では、その頃よりも今の方がずっと幸せですね?」

そこで愛子さんは、「否」と、思う。


あの頃は、毎日火の玉のように働いていた。
四十度の熱があっても講演が出来た。
病は辛かったが、死ぬことは怖くなかった。

それは決して不幸ではなかった―

愛子さんは思う。


この文章を読んだとき、私は涙が溢れてきた。

その後何回かこの文章を読み返したが、その度に涙は溢れた。


そうだ。

傍から見れば不幸に見えるかもしれないけれど、それは決して不幸なんかじゃないのだ。

必死で必死で現実と格闘して、これでもかと現れる難題と取っ組み合いをして
それでも大丈夫なのだ。

いつかきっと、こんなふうに懐かしく、思い出す日が来るのだ。

その当時の私は、そこまでははっきり意識していなかったかもしれない。
けれど、終わりの見えない戦いが、それでもいつか必ず解決するのだと、断言してもらったような気になったのだろう。



エッセイにしばしば登場する一人娘の響子ちゃんは、
一度も会ったことはないけれど、なんだかとても親しい気がした。

愛子さんと響子ちゃんが一緒に映った写真が何枚かあり、
私はまるで親友を見せるように、母にみせた。

「ああ、お母さんとそっくりだね」

そうかな・・と、私は思ったが、母はどんな親子の写真を見せても
「ああ、お母さんにそっくりだね」と言った。



響子ちゃんも、怒涛の日々を乗り越えた。

愛子さんが、響子ちゃんのことを述べた文章がある。

「彼女は、自分の周りで起こることを、すべて風景としてみることで
乗り越えたのだと思う」
そういった文章だった。

私は、感情を無くすことで乗り越えた。

要は同じことだ。



愛子さんの小説で、彼女を模したと思われる主人公が、講演する場面がある。

そこで主人公は、「人には負けるとわかっていても戦わなければならない時がある」という言葉を紹介する。

話し終わった主人公のもとに、一人の青年がやってくる。

「自分はアルバイトをしながら夜間の高校に通っている。
先生がさっき紹介してくれた言葉を、ここに書いてほしい」
そう言って、学生かばんを差し出す。

主人公は思わず涙が溢れそうになりながら、かばんに書き記す。


まっすぐな心を持っていても、困難に生きなければならない人間と
それでもまっすぐであろうとする美しさが出ている。

愛子さんは、「負けるかもしれない」と、どこかでは思っていたのだろう。

それでも戦った。

数時間の睡眠で、頭痛薬はすぐに一箱がなくなるくらい常用して
美容院にいく時間がないからウィッグをかぶり、
全国をとびまわり、原稿を書いた。

その間に何度も病気になる。



母に、この人のエッセイを読んで聞かせた日から、もう四半世紀以上が過ぎた。

母は、もうこの世にいない。

私はきっとどこかで、時間と戦うように死に物狂いで働いてそんな生き方を
少ししてみたいと思っていたのだ。

ちょっとだけ、近い生活をしている。


愛子さんの四十代は、様々な意味で激動の時代だったと、ご本人が書いておられた。

私の四十代は、あと半分近く残っている。



昔読んでいた頃には気づかなかったが、私は非常に激しい人間だった。

体の奥底にしまいこみ、重石を重ねた「恨み」や「怒り」が
何かの拍子で外に飛び出ようとしている。


私には無い、と思っていた愛子さんの激しさに似たものが、私にもある。


愛子さんが「血脈」を上梓されたときは、本当に嬉しかった。

作家佐藤愛子は健在なのだと、大きな声で振れ回りたいように誇らしかった。


この人の歳になるまで、まだ四十年くらいある。

私は、器用に要領よくは生きられない。


ただ一所懸命、力を振り絞って生きるだけだ。




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宮田美乃里 三.短歌 [人]


「塩漬けの桜の花に湯をそそぐ陰部のようにほころんでゆく」


これは宮田氏の作である。

湯をそそがれた桜茶が、熱い湯の流れに翻弄されながら
重なった薄い花弁を開いていく様が
まるで処女が男と初めて愛を交わす時のようだと思い
俳句か短歌にしようと試みたことがなんどかある。

結局未だ成し得ないのだけれど、宮田氏はなるほど
「陰部」と喩えたか・・と、思った。



何をもって「歌人」というのかは不明だが
少なくとも宮田氏ご本人は、ご自身を「歌人」と名乗っている。


この人の短歌がレベル的にどうなのかは、私はよくわからない。


歌人というには稚拙に感じる歌もいくつもあった。


素直に、ああ・・いい歌だなあ・・、ああ・・うまいなあ・・と、感じるもの
胸に染みてくる歌も、いくつもあった。




宮田美乃里は、自分のことがとても好きだったように思う。

他の人には理解してもらえない、辛いことがたくさんあった自分を
宮田美乃里本人だけは、まるごと好きでいたのだと思う。

それが悪いといっているのではない。


自分を好きだったからこそ、自分なりの最善をこの人は尽くしたのだろう。

宮田美乃里氏は、こよなく自分の人生を愛していた。

それは、彼女の味わった辛さ、孤独、苦しみを含めた「人生」をである。

自分を主人公とした大河小説が人生とするならば、
彼女はその人生を、自分の価値観と考え、意地と美学をもって完結させた。


これが私の、今の時点での感想である。


彼女が命をもって書き上げたその大河小説に満足しているか―

それは天国の彼女に聞いてみなければわらない。




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宮田美乃里 二.写真 [人]

私は未だ一冊の本として「乳房、花なり」を目にしたわけではない。

web上にアップされた数枚の写真と、宮田氏の遺した何百首の短歌を読んだだけだ。



美しい顔と生々しい傷跡は、相容れないものであるけれど、
どちらもが「宮田美乃里」という一人の人間の一部であると思えば、
そうか人間にはいろいろな部分があるのだったな、と思う。


宮田氏がアラーキーに宛てた手紙の一節に
「普通の均整の取れた裸体ならば飽きるほどご覧になっておられることでしょう。
けれども、私は、ちょうど枯れかけた花のように、片方の乳房がありません…
そこには、私の人生があります」という文章がある。

この最後の部分。

かつて片方の乳房があった場所。
そこに今は乳房は無い。

そして、「そこには、私の人生があります」という言葉は、とても素直に私には響いた。

自分の胸の手術の跡を考えるとき、それは確かに「そこには、私の人生があります」
といえるように思うからだ。


枯れかけた花といえば、アラーキーにはそれをモチーフにした作品集があったはずだ。

三ノ輪の「浄閑寺」。

写真家荒木経惟氏の生家と向かい合って、そのお寺はある。
お墓に手向けられた花々は、日を経るごとに枯れていく。

その花々をとった写真の数々を、かつてテレビで見た。

モノクロームで、ある種グロテスクでもあった。

しかし満開のときとは又違う、「熟れ」や「退廃」や「哀しみ」や「健気」や
「強さ」があったことも事実である。



ここでふと、今年の三月「ピンクリボンフェスティバル」の一環として
雑誌「グラマラス」に掲載された女たちのセミヌードを思い出した。 

乳がんの早期発見を啓蒙するといいながら、
女優やモデルたちの美しい裸体、乳房を掲載してのチャリティーとは何なのか!?
そう各方面から叩かれたイベント。


蜷川実花が撮影した写真の数々。



彼女が監督をつとめた映画「さくらん」と同じだ。

美しい色彩、構図、光の加減。

ただそれだけだ。

美しいのはその表面だけだ。


なのでその写真を見た女たちは
「ほんとにキレイなヌードでした。
やっぱり美しさは健康あってのものですよね。
私も乳がん検診いかなくっちゃあ!(ニコニコマーク)」
などという感想をブログにアップしたりするのだ。



蜷川実花の写真は、アラーキーの写真に完璧に負けている。

私の感受性では、である。


アラーキーの写真はこちらに迫る。

一人の女の肉体と心が迫ってくる。


彼女がレンズに向ける視線は、
しっかりとしているようでもあり、挑戦的でもあり、怯えているようにもみえる。

胸に一文字に走る手術跡は、それがあるために
美しい彼女が一瞬サイボーグのようにも見える。

相反するはずのものが混在し
強烈な存在感と色気を立ち上らせている。


この写真集を、写真家と歌人の相聞歌と評しているのを見たが
まさに二人の魂のやり取りを感じる。


裸身をレンズの前に晒し、男に写真を撮らせていくのは
一種のセックスでもあるように思う。


レンズを隔てて、荒木経惟氏と宮田美乃里氏は、魂を交わらせていると感じた。

そういう写真が私は好きだ。



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宮田美乃里 一.考え [人]


数日前の夜中、荒木経惟氏の撮った一枚のヌード写真を見つけた。


携帯電話のディスプレイに写ったその人は、とても美しかった。

その人の左乳房は無く、乳房のあるはず場所に
横に太く一本、その太い線をまたぐように縦や斜めに幾本もの短い線が在った。


その人は宮田美乃里。
1970年11月23日、静岡市生まれ。


2002年、21歳の時に乳がんが発覚。
乳房温存を目指し様々な医療機関でオピニオンを求める。
治癒できる段階とは考えられるが、温存は難しいと告げられる。
「最善を尽くしても5年生存率は6割だ」と言う医師もいた。

彼女は「治療はしない」という結論を出す。

その後、膿んだ癌細胞が皮膚を突き破って流れ出てきたため
それに対する処置としての手術のみ承諾。

左乳房切除。

2004年、写真家荒木経惟氏に、自身の紹介とヌードを撮って欲しい旨の手紙を送る。
荒木氏受諾。
荒木氏が写真を撮り、宮田氏が短歌を返すという形式で、「乳房、花なり。」を上梓。

2005年3月28日。永眠。34歳。




もう消灯を過ぎていたので、夜が明けてから、この人に関するサイトをいろいろと読んだ。
そこで得た、彼女に関する経歴が上記である。


彼女の詠った短歌を読んだ。

「乳がんの治療はしない」という選択をした後のインタヴュー、そしてそれに対する多くの人の
反論、励まし、非難、も読んだ。


彼女をモデルに小説「」を上梓した森村誠一氏のサイトも読んだ。

森村氏の撮った宮田美乃里氏。

大変に美しい人だ。



すでに何度も各メディアで紹介されていた人だった。



彼女の「乳がんであるが、治療はしません」というインタヴュー。
それに対する様々な投書。

宮田氏は2回、気にかけてもらったことに礼を述べ、自らの考えその根拠などを載せた。

しかし、3度目には「全員を敵に回す覚悟で本音を言います。私は一日も早く死にたいのです」と述べ
それ以降彼女の発言は無いままとなった。


このやり取りは、非常に興味深いものであった。

誤解を生むかもしれないが、ほとんどの励ましや批判は「的外れ」に思えた。

宮田氏に対して述べているようでありながら、 
投書した人の「死生観」「人生観」が現れている。


一人の人間がどう生き、どう死んでゆくのかというのは、本当の最終的な判断は本人に委ねられるべきとも思うし
その反面、乳がん治療の第一人者が述べているように「人の死はその人に属することだが、人とのかかわりの中で暮らしている以上、生死さえその人だけのものとは言い切れない部分があるのも事実だからだ」と言われればそれももっともだと思う。


何人もの人が、宮田氏を激励する根拠として
「私も乳がんを(それ以外の病を)患ったが、治療手術を経て今はこんなに元気、幸せである」
「可愛い孫(それ以外の家族)のためにもっと生きたい」
「あなたより苦しい思いをしてきた人はたくさんいる」
「もっと心を開いて」という主旨のことを訴えている。


これらの言葉で宮田氏を翻意させることは無理であろう。

そもそもこれらの言葉を彼女に述べることがナンセンスに思える。

彼女は幸せになりたいわけでもなく、苦しみというのは比べようもないものであり
人に「心を開け」ということは、相手の心を閉じさせるものだからだ。


宮田氏にかけられた多くの価値観は、声をかけた人の価値観であり
「私」や「私の近しい者」が味わった苦しみは
おそらくその人たちに「誰にも言えずにいること」があるように
宮田氏にも、誰にも打ち明けていない苦しみがある。


心を開けという人は、人が心を閉じるということがどういうことであるか
根本的に理解されていないように思う。

心というのは「さあ、開け!」といわれて開かれるものではない。

相手を信頼して、そして相手に「今まで何度も駄目だったけど、
今回こそ、この人になら大丈夫かもしれない」という勇気を与えられて
そこで初めて心を開くのである。


当時すでに癌を抱えていた宮田氏にとって
この数々の投書を読むこと、そしてそれらに返答することは
大変に疲弊することではなかったかと、推察する。


ここで述べられた宮田美乃里氏の心情に、共鳴する部分は何箇所もあった。

ただ、私は「生きたい」と思った。

自分にとっての最優先事項はなんなのか?

癌発覚からセカンド・オピニオンの直前まで考えて行き着いたところが
「命」だった。

そしてそのために「転移、再発をさせない」ということが必要項目となった。


私はそう思ったし、その優先順位は今もそのままだが
ただ自分と違う価値観の人に、それは違うというつもりは無い。





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たんぽぽの綿毛のようにふわふわと 「高橋尚子」 [人]




たんぽぽの綿毛のようにふわふわと42キロの旅に出る


Qちゃんこと高橋尚子選手が、シドニーオリンピック女子マラソンで金メダルを取ったとき
レースの前に詠んだ歌だそうだ。



彼女は日本人女子として初めて、陸上で金メダルを取った。

そして、今まで以上にマスコミに取り上げられた。

彼女の特番が組まれ、お神酒徳利みたいな、小出監督と並んだ姿を
あちこちで目にした。

その頃にこの歌を知った。



タンポポの綿毛のようにふわふわと42キロの旅に出る


フルマラソンといえば、死ぬほど苦しいというではないか。

ましてオリンピックともなれば、日本国という一国の期待を担わされて走るのだ。

突き詰めて考えていくと、叫び出したいような恐怖なのではないか。



そんな私の意識と、「タンポポ」「綿毛」「ふわふわ」という言葉は、正反対にあった。

42キロの過酷な道程を、彼女は「旅」と例えた。



化粧っ気の無いQちゃんが、Tシャツにリュックを背負い、日よけの白い帽子を被って
陽盛りの野原を歩いている光景が浮かんだ。


何の気負いも無い。

何の恐れも無い。

ただ気持ちよく風を感じ、お日様の光を感じ、草木の匂いを吸いながらのどかに知らない道を行く。



ああ、こんな風に生きたいな・・・と、思った。

私はいつも「先」のことが恐かった。

新年を迎える頃になれば、「新しい年には誰か大切な人に何かあるのではないか」
そんな不安が強くなった。

先のことなど、誰にも、何もわからないのだから、何も恐れずのびのびと生きればいいのだと
だいぶ大人になってから思えるようになった。



この歌を詠んだ頃のQちゃんは、過酷なことは多々あっただろうが、まだそのとば口だったのかもしれない。


金メダルのQちゃんフィーバーの後、バッシングが起こった。

「ブランドものばかり持っている」

「激太りした、もう駄目だ」



あれからのQちゃんの道のりは、もしかしたらどのマラソンよりも険しいものだったかもしれない。

故障。

小出監督との別離。

衰える体力。



先日の名古屋国際女子マラソンの後、やはり彼女は多くのメディアに取り上げられた。

その中に、今までのインタビューを短くまとめてつなげて見せているものがあった。

数年前のインタビューだろうか。

やつれ果てた様なQちゃんが写っていた。


顔色は悪く、肌に生気は無く、髪はパサパサに傷んでいた。

Qちゃんはそんな姿のまま、静かに、まっすぐに質問者を見つめていた。

そのQちゃんは、孤独に見えた。



「タンポポの綿毛のようにふわふわと」彼女が走れる日は、又来るだろうか。




タンポポの、綿毛のように、ふわふわと・・・

仕事に行く道すがら、おまじないのようにつぶやいてみる。

嫌なこと、悔しいこと、不安なことはいっぱいある。
でもそんなことは考えないのだ。
先のことなど考えず、ただ今日をやわらかく生きよう。




たんぽぽは、花を開いてもその後も、可愛らしい花だ。

放射状に伸びた葉の中で、やはり放射状に黄色い花咲いている様子は
幼い女の子が親に抱きつこうとして、背伸びして顔を反り、腕をいっぱいに伸ばしているようだ。

綿毛となったたんぽぽは、まあるい形でやわらかく、風の中で揺れている。
体に比べて頭の大きい、幼子のようだ。


この歌にある「幸福感」は、小出監督に守られて、幼い子供でいられた時期のものだったのだろうか。



たんぽぽの綿毛のようにふわふわと

過酷な道の途中でもそうありたい。

過酷な道の途中でも、Qちゃんが少しでも、そういられればいいと思う。







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伊集院静 [人]

実は、私は夏目雅子という女優さんを、巷間言われるほどに
美しいと思ったことも、清楚だと思ったことも無かった。

ただ、ある時期から妙に気にかかり
古い映画を見直したり、画像を見たりするうちに
「いい女優さんだったなあ・・」と思うようになった。

昨日「夏目雅子のドラマ」を放映していた。

彼女のことがドラマになるのは、これで三回目らしい。
初回も二回目も、私は観ていない。



彼女がまだ女学生時代、母親に大反対されながらも芸能界に入り、
「クッキーフェイス」のCMで一躍時の人となり、
女優として上り坂を駆け上り、
愛した男と困難を経て家庭を築き、
そして志半ばで亡くなるまでが描かれていた。

伊集院静氏のことは、緒方直人が演じていた。




夏目雅子と伊集院静氏の仲がスクープされたのは衝撃だった。
その人は、例えば俳優さんとか、映画監督とか、
私たちが知っている人ではなかった。

ワイドショーでも、「CMクリエーター」とか
「ショーのプロデューサー」とか、いろんないわれ方をしていた。

そして「こちらの方なんですが」と、レポーターの持つパネルがアップになった。

そこには、複数人で写した写真を引き伸ばせるだけ引き伸ばしたであろう
ぼやけた写真が映っていた。

えっ・・・?

他に写真は無かったんですか? と、いいたくなるような
本当に写りの悪い写真だった。

でも、それからしばらくたって、動いている彼の映像をテレビで見た。

確かファッションショーのリハーサルだか打ち合わせだかの最中だった。

「ああ・・この人、女の人にもてるわ・・」

すぐにわかった。

その人は長身で、しっかりとした骨格を持ち、肩幅が広かった。

無造作に身に着けた白い木綿のシャツがよく似合っていた。

真剣に仕事をしているときの男のひとは、三割~四割増しで
いい男に見えると思うが、それを差し引いてもいい男だった。

ノートを見ながら女の人と立ったまま、舞台や客席を見ながら打ち合わせていたが
彼女と話すとき、背の高い伊集院氏は上から相手を見下ろすようになる。
反対に、女の人は顔を上げなければならない。
少し猫背で覆いかぶさるような伊集院氏の姿勢は、
小さな子供を心配しているようで、妙に優しげだった。

ちょうど時期的に、昨日のドラマとかなり重なるのが
氏の著書「潮流」だと思う。

伝説のコマーシャルが生まれる過程が、丁寧に描かれている。

氏の、一本気な性格も、荒れていた当時の生活も、
優しさも、よく出ている。

そして、夏目雅子の可愛らしさも、強さも、いじらしさも、同じくよく描かれている。


お二人が結婚し、そして夏目雅子が舞台「愚かな女」を降板し
そのまま入院生活に入った当初、
伊集院氏のインタビューを数回見た。

本当はそんなことしたくなかったのだろうが、
彼女の病気をひた隠すために、決死の思いでとった行動だろう。

のほほんとした受け答えの奥の奥に、激しい怒りと悲しみを感じる。

芸能レポーターたちにぎゅうぎゅうと攻め寄られた彼は、
頭一つ分くらい、まわりより背が高かった。

「―う・・ん、もともとねえ。あんまり丈夫な子じゃないんですよ」
「まあ、あれは重病とは言わないねえ・・」

今でも覚えている。
かれは、「子」、と言ったのだ。

私は羨ましかった。

大変不謹慎で、申し訳がない。

ただその「表現」が、うらやましかったのだ。

私も男のひとに、「子」と、呼んで欲しかった。

庇護する対象、自分よりもか弱きもの、自分を慕い頼っているものに対して
用いられる言葉。

「あの子は・・」
「この子は・・」

男の人が、女の人を「子」と呼ぶことが、私はすごく好きだ。


伊集院氏は、夏目雅子が亡くなってから、しばらく消息を絶った。

そして確か「小説家」として、我々の前に姿を現したように記憶する。

その流れは自然なものに感じた。

闘病中の彼女を描いた「乳房」は、本屋で立ち読みをして、
涙でぼやけて困った。

次に読んだ本は、題名すら忘れてしまった。
そんなにおもしろいとは思えなかった。

そうこうするうち、彼は「直木賞」を受賞した。

その頃、おそらく殺到するインタビューをこなしていたのだと思う。

女性誌のインタビューを読んだ。

何枚かの大きな写真とあわせた数ページだった。

その、力みの抜けた、でもやはり「何かを庇護している」ような雰囲気は
とても素敵で、色気はまったく消えていなかった。

そこで、インタビュアーが「以前伊集院さんは、自殺する人は嫌いだとおっしゃっていましたが」と
いうようなことを訪ねた。

かれは、「― 生きたくても生を全うできなかった人達を見てるからね」と、述べていた。

ああそうだ、彼の弟さんも事故で亡くなっていたんだっけ・・・と、思い出した。



最近は、その風貌も、白髪が増え、黒縁の眼鏡もよくお似合いで
「伊集院先生」、と言う感じだ。

最後の無頼派なんていわれているらしいが、別に無頼じゃなくたっていい。

男の作家は、色気が在る人が多い。

そしてそういう人は、たいてい修羅場をいくつもくぐっている。

だいたい修羅場もくぐらず男の色気を身に着けようと思うほうが無理なのだ。

沢山沢山罵倒され、沢山沢山恥をかき、人の観ていないところで悔し泣きをし
失敗を重ね、裏切られ、誰かを死ぬほど憎み―

そうやって必死で生きていくうちに、男には「色気」が生じてくるのだ。


昨日の番組前、仲間幸恵は「緒方さんは伊集院さんを、
とても色っぽく演じてくれました」と、語っていた。

ちょっと期待した私が間違っていた。

佐藤浩市あたりに演じて欲しかったけどな・・・


伊集院先生は、今は奥様の故郷の、杜の都でお暮らしらしい。

ずっとずっと長生きなさっていただきたい。

幼子を包み込むような父のような視線と、
相手の本質を見極めるような強烈な視線。

その両方の視線を浴びられた女たちは、
ある意味幸せだったように思えて、私には、妬ける。



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阿木耀子 [人]

テレビの中、真っ白な蝶が羽をゆっくり広げるように
ジュディ・オングが「魅せられて」を歌っている。

この歌が本当にわかるようになるのには、
女にとってどれくらい時間がかかるだろう

―好きな男の腕のなかでも、違う男の夢を見る

ことのさなかの心理描写である。
女は好きな男に抱かれて、その悦楽に浸っているとき
自分を包んでいる男のことを思う。思っている。

それは紛れも無い事実だ。

そして、好きな男に包まれながら
至福の海を漂って、そこに違う男を見ることがあるのも
又、事実である。

何人かの男との性愛を経て、たどりつく地点
のように思う。

―南に向いてる窓を開け、一人で見ている海の色
 美しすぎると恐くなる
 若さによく似た、真昼の蜃気楼

そう。そこにたどり着く頃には、たいていの女はもう「若く」はないのだ。

張りのある肌と、艶のある豊かな髪と
柔らかな筋肉や関節を持っている
そんな時期は、女にとって短い。

自分が持っている武器にも気づかずに
ただ、若い女はその季節を生きる。

自分のもっていた武器の強力さに気づくのは、たいていそれを失くしてからだ。

それとも私が気づかなかっただけで
他の多くの若い女は、十分に自分の魅力を活かしきるのだろうか。

どの季節もそうだけれど、徒然に昔の同じ季節を思い出す。

肌を刺す陽の光に微かな痛みを感じ
あらゆるものが反射してまぶしい街中と
そこを闊歩する若い女の露出した肌を見ながら。

今まで、本当に好きになった男の人は何人になるのだろう?

もうこの先こんなに好きになる人はいない、
などと思っても、ちゃんと新しい人が登場するからたわいない。


阿木耀子氏が、この詩を20代後半で書き上げたことに驚嘆する。

このひとの歌詞を集めた本を昔買ったことがある。

紛れも無い「女たち」がいた。

この人をテレビのインタヴューなどで拝見すると、
ほあんほあんとして、とても可愛らしい。

あんなにあどけない可愛らしさで、女の毒も綴っている。

「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」もすごい。

― 一寸前なら憶えちゃいるが
  一年前だとちと判らねえな
  髪の長い女だって 
  此処にゃあ沢山いるからねェ

こんな書き出し、した人いなかった。

阿木氏のあどけない笑顔は、世の中の汚いところなど何も知らないように見える。

違う違う。

ご本人の作「曼珠沙華」の中で、語っているではないか

―涙にならない悲しみのあることを、知ったのはついこの頃
 

悲しみは、涙になってくれた方がありがたい。
その分、体の外に出て行ってくれる。
涙になれなかった悲しみは、体の中に積もっていくばかりである。


女は海だとよく言われる。

潮の満ち引きが、女の生理と重なるのか。

全てを包む温かさが、柔らかな海水を連想させるのか。

確かに女は子を孕んだとき、「羊水」と言う名の海を身内に作る。

「横須賀ストーリー」では、こちらの思いに応えてくれぬ
大人の男が登場する。
二人逢って、女が飲むのは熱いミルクティーだ。
そんな、まだ少女のような女でも、
男は自分の知らない「大人の世界」の住人であること、
いつもいつもこれが最後の逢瀬になるかもしれないことは気づいている。

判っていながら、逢えば「波のように抱かれる」のである。


「イミテイションゴールド」では、若い男との情事のときに
去年の男と較べる女が描かれる。

女は男のどこに「違い」を見つけていくのか?

声・歳・ゆめ・ほくろ
くせ・汗・愛・利き腕

女の五感を刺激するものが並べられていく。

ふつうに話をしていても気づくものもある。

肌を合わせてみなければ、気づかぬものもある。



この人は、言葉に対する能力が、普通の人よりずっとずっと強いのだ。

言葉の神様に愛された人に思える。

この人の指で紡がれた言葉は、他の誰にも出来なかった
色や光や匂いや肌触りを持っている。

これからも、この世に溢れる言葉から
すいすいすい、と、いくつかを掬い上げ
その指先で、魔法のような布を織り上げていかれるのだろう。

言葉の糸と戯れる、童女のような笑顔が見える気がする。



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野沢尚 [人]

この人の書くドラマが大好きだった。

男女の愛、親子の愛、友情、仕事、組織、
個人、人生の過ち、人の愚かさ、人の尊さ、人の愛おしさ―

そういうものを、真摯に真摯に突き詰めて、描き続けていった人だと思う。

特に、この人がライフワークのように取り組んでいたのが
「夫婦となった男女の関係」だったように思う。

「親愛なる者へ」「素晴らしきかな人生」「この愛に生きて」

もちろん、「青い鳥」も「結婚前夜」も「水曜日の情事」も
夫婦という関係が、かなり重要に扱われていた。

ただ、野沢氏の、ある時点での一つの見解が
先に述べた「夫婦三部作」にはあったと思う。


北方謙三氏も述べておられたが、
野沢氏の書くものには、常に「死のにおい」が付きまとった。
それは決して不快ではなかったし、巨大なテーマに
きちんと対峙しているところは好感を抱いた。

彼が「江戸川乱歩賞」を受賞してすぐ、新聞に
連載エッセーを書いていた。

「殺人とは、君達本人だけでなく、君達の大事な家族の輝ける未来も
幸せの可能性も、なくしてしまうことなのだ」
「もし、何故それがいけないことなのかと思う若い人がいたら、
僕はぜひ一緒に話し合いたいと思う。
そこに君達の親御さんが一緒だったらもっといい。
そういうことができるなら、
僕は自分の書いた本が、紀伊国屋書店に平積みされるよりも
はるかに嬉しい」

そのようなことが書かれていた。

小説の賞をとった直後にそういうことを公で発表するのもすごいと思ったが
私は野沢氏の真摯さに打たれた。

氏は、私よりもほんのちょっと年上だが、その年齢の人が
若い世代に向けて、ここまで真っ直ぐに発言していることに驚いた。

「言ってもわかんない奴は、何をどう言っても駄目なんだ」

そういう開き直りがなかった。

分かり合うための努力は惜しまない、という決意が感じられた。
少なくとも、相手の話を真剣に聞く用意がある、ということは
はっきりとわかった。

それは、多大なエネルギーを要することも、
そういう誠実さに、不誠実をもって対する人がいることも
わかっていたけれど。


野沢氏は、あまりにも誠実に生きすぎた気がする。

けなしているのではない。

驚嘆しているのである。
そして、立派だと思う。

「眠れる森」は、野沢氏の最高傑作だと思うが、
ご本人がこのドラマに際して、次のように述べている。

『どんなに悲惨な過去に苦しめられ、
 どんなに罪深い過ちを犯していようと、
 全てを引き受け、その人生を生きろと』

その野沢氏が自ら命を絶ったことは、本当に残念だ。
しかしこれは、全くの第三者の、自分勝手な願望である。

野沢氏には野沢氏の思いがあり、葛藤があり、戦いがあり
選択があったのだろうと思う。
何人も、それを批判したりまして軽蔑するようなことは出来ないのではないか。

「眠れる森」が佳境に入った頃、サイトの盛り上がりもすごかったそうである。
そして、次の作品「氷の世界」では、筆者である野沢氏も
BBSに参加したそうだ。

が、そこで野沢氏は徹底的に叩かれる。

署名入りの反論、ではなかった。

「お前の書いたものなんかもう見ない!」
「お前なんか辞めてしまえ!」

もしできることならば、自分はその人達と会って話したかったと野沢氏は語っていた。

2ちゃんの嵐を、一人でうけてたったようなものだ。

そしてそこでは、誠実さ、真摯さ、というものは全く無視される。
何の力も持たない。
逆に、火に油を注ぐようなものだ。

相手は自分が叩いている本人が、真面目で真っ直ぐに向かってくるほど
はぐらかし、叩き、煽る。

最後に氏は「僕はもう、君達とは話さない」と言ったそうだ。

野沢氏の書いたドラマの中で、
夫婦は配偶者以外の異性と交渉を持ったり
一度は関係が壊れたりする。

自分の全人生を賭けたものに裏切られたり
巨大な敵に向かっていったりする。

人生を捨てているような、みんなから見下されている人が
宝石のような誠意と勇気をかいまみせたりする。

自ら命を絶った人もいた。
命に区切りをつけられた人もいた。

ある地点から、自堕落に生きていった人もいた。

失恋という地獄であえいでいた人もいた。
人間関係という地獄で泣いていた人もいた。

「この愛に生きて」の最終回、忘れられない科白がある。

幼い息子の死をもって、決定的に破綻した元夫婦が
山小屋の中で二人きりで対峙している。

夫は必死で仕事をし、妻は必死で家庭を守り、
互いが互いを思っているのにすれ違っていく。

そして夫は、前妻とよりを戻し定期的に肉体の交渉を持つ。
妻は夫以外の男と付き合うようになり、
その男との情事の最中、息子が殺される。

そこには、夫の仕事や、現在の妻に対する前妻の嫉妬など
いろいろなものが絡んでいるのだが、
妻は夫を許せずにいる。

そこで夫が叫ぶ、
「もう50年!お前と夫婦でいさせてくれないか!」

もう50年・・もう50年・・

ああ、夫婦とは、そんなにも長い時をともに歩んでいくのだと
未婚の私は改めて気づかされた。

ボロボロに傷ついて、それでもその傷つけられた相手とともに
50年以上もの年月を歩くのか・・

勝手な、勝手な願望を述べる。

野沢氏にもっともっと沢山の脚本や小説を書いて欲しかった。

北方氏が述べたように、確かに野沢氏の書くのもには
常に「死のにおい」があった。

私はそこにも惹かれていたように思う。

それが現実世界の「本当」なのだ。

私達は常に、死と隣り合わせにいる。
それが見えるか見えないか
感じるか感じないかの違いだけのように思う。

野沢氏の書いたものは、キレイ事ではなかった。
理不尽に満ちた現実社会のことだった。
摩訶不思議な、人の心というものだった。

「結婚前夜」「眠れる森」。
この二作品が放映された年の暮れ、私は
野沢氏に手紙を書こうかと思った。

「今年は素晴らしいこの二つの作品に出会えたことが嬉しかったです」と、
伝えたかった。
結局手紙は書かなかった。

書いて、読んでもらいたかったな・・と、今でも時々思う。


最後に、野沢氏作の戯曲「ふたたびの恋」の一部を掲載させていただきたい。
かつて一世を風靡し、今はおちぶれた脚本家と、
元教え子で愛人、今は人気脚本家となった女との会話である。

晃一  いいか、祈りだ。
     それがないドラマはすぐに忘れられていく。
     俺たちは悲しいことに、
     電波になって人々の間を
     すり抜けていくようなものを作っているんだ。
     このドラマがあなたにとって
     素晴らしい時間でありますように。
     未来への希望でありますように。
     観た後、周りの人に優しくなれますように‥‥
     そういうドラマを受け止めてくれ、
     がっちりその手でつかんでくれと
     強く祈らないでどうする。
新子   顔の見えない相手よ。シャドーボクシングよ。
     万人に対して祈れって言われたって‥‥。
晃一  だったら身近な人間だ。
     たったひとりのためでもいいから、
     このドラマを見てほしいと、
     このドラマで心を揺さぶられてほしいと祈れ。

野沢氏に、あなたの祈りは確かに届いていましたと、

伝えたかったと思う。



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瀬戸内寂聴 [人]

一昨年の年末にしていたドラマ「女の一代記」シリーズの、寂聴さんの回を再放送していた。

冒頭、青空説法をしている寂聴さんの姿が映る。
会場のお寺の敷地には、もうものすごい数の人である。
老若男女、日本中からこんなに人が集まってくるんだなあ・・と思う。

小柄な寂聴さんは、身振り手振りでユーモラスに話す。
みんなもつられて大きな口を開けて笑っている。
おそらくは、その場所に、自分ではもうどうすることもできない悲しみを、
抱えてきた人たちも多かろうに。


「私は自殺しないために出家したんです」と、寂聴さんが述べているのを
読んだか聞いたかしたことがある。

もう出家の理由など、ほとほといやになるほど質問されて、そもそもそんなことは
一言で他者に説明できるはずもなく、寂聴さんはよく「仏縁」という言葉を使われる。

「自殺しないために―」というもの、理由のひとつで、
私たちにわかりやすく伝えてくださったのだろう。


この人がデビュー二作目の「花芯(かしん)」で、
徹底的に叩かれて、文壇から5年間干されたのは有名な話だ。

数年前に再版されて、今では赤いきれいな表紙で本屋に平積みされている。
時代は変わった。

ともあれ出家前の瀬戸内晴美という人は、誰もが認める流行作家だった。
各界の著名人とも対談し、おおらかに自由に生きているように見えた。
当時の写真をいくつか見ると、どれも本当に楽しそうに笑っている。

しかし、その時代をご本人はこう語っている。

「好きなものが食べられるようになって、高価な着物や宝石も買えるようになって、
高いマンションに住み、マスコミに取り上げられて・・・
でも、そうなったとき私は本当に空しかった」

「優しい夫を裏切り、年端のいかない我が子を捨て、まだ若い青年の未来を狂わせ
その結果手に入れたものは、こんなくだらないものなのか?
こんなものを手に入れるために、わたしは周りの人たちを散々に傷つけてきたのか?」

そう思ったら死にたくなった― と。

この人が得度したとき、私は小学生だったが、その日の夜のNHKの全国ニュースで
その話題を取り上げていたのを見た。
白黒のTV画面に映るお寺。
確か、寂聴さんご本人も写っていたと思う。

今なら誰だろう。
奔放に生き、男女の性を余すところなく描いた五十前後の女流作家。

山田詠美あたりかな?
林真理子はちょっと違う。
小池真理子も違うな・・

とにかく当代きっての女流作家、しかも男女の関係を掘り下げて書いていた人の
若くしての出家は当時相当話題になった。

そして、寂聴さんは厳しい「行」に入るわけだが、そのあたりのことは、著作「比叡」に詳しく書いてある。


子供か孫かという年齢の私が語るのも僭越だが、
この人を見ていると、いろんなことを思う。

画面や紙面で寂聴さんをみつけると、なんだか嬉しくなる。
話を聞くと、思わず笑い、涙が出て、少し元気になる。
そして、「かわいい人だなあ・・」としばしば思う。

得度してすぐの行に入り、その最後の時。
大きな火を炊くのだそうだ。
そして、きちんと行を済ませた者にだけ、仏様のお姿が見えるのだという。
寂聴さんは、火に向かって手を合わせ、祈りながら
「見えなかったら恨みます・・」などと心の中で言っていたのだそうだ。

なんとも可愛らしいではないか。

以前「おしゃれ関係」にゲストで登場したときも可愛かった。

寂聴さんに悩みを聞いてほしいという(おそらくヤラセの)女の子が出てきた。
「私は失恋して、やけになってチョコレートとかたくさん食べてふとってしまい、
もうぜんぜん自分に自信がもてない」という、ありきたりな悩みを打ち明ける少女に
寂聴さんは、一所懸命さとしている。

「あなた、全然太ってなんかいないわ。どこが太ってるの?」 一拍おいて、「おなか?」と、
彼女のおなかを見ながら聞いていた。
そして、
「ね、もう髪型も変えて、髪もぱっと切って―」といいながら、不思議そうに彼女の髪型を見て
「どしてそんなにたくさん、ピンをとめてるの?」と首をかしげながら聞いた。

横から渡辺真理奈が「今流行だから・・」と、フォローしていた。

そんなときの寂聴さんは、女学生のようで、童女のようで、とても可愛い。


昨年は私にとって、三年分くらいのいろんなことが起こり、ほとほと疲れていた。
春に、初めてまとまった休みをもらった。
私は「寂聴さんに会いたい」と思った。
直接話ができなくてもいい、生きた寂聴さんに触れたかった。

調べると、ちょうど写経の会の日にちとうまく合った。
この会は、もう二十年も前から参加したかったものだ。

前日京都に入った。行きの新幹線の中でも私の気持ちは重かった。
翌朝、早くに起きて、私は寂聴さんに手紙を書いた。
返事はもらえなくてもよかった。

寂聴さんに、母と私が支えられたのだということを、母の分も伝えたかった。

雨の中、タクシーに乗り、雑誌やテレビで何度も目にした「寂庵」に着いた。

そこはご本人がおっしゃるように、たしかに「そんなに大きくはない」建物だった。

降りるとすでに写経の会は始まっており、会場の半分くらいには人がいた。

初めての私はどうすればよいかよくわからなくて、まごまごしていたら
庵の男性が、ご親切に中に導いてくださった。

お香の香りに包まれた部屋の奥の方、人々の頭の隙間から、寂聴さんが見えた。

その人は、思ったよりも小さな小さな方だった。
しかし、その小さな体から発せられる声は力強く、筮竹のような力も秘めていそうだった。

私は一番後ろの一番隅に座し、持参した白紙に使い慣れた万年筆で写経をしていった。

途中から、何故だか知らぬが涙が出てきた。

「その、貴方にとって大切な亡くなった方がね、貴方をここに連れてきてくれたのよ」
そう言うと、瀬戸内さんの元を訪れた大抵の人が落ち着かれると、以前ご本人が話していた。

写経の最後に、その写経を誰のために記したか、名前を書く。
私は、祖母と母と父と、そして弟にとって我が子のようだった愛猫の名を書こうと思った。

その人たちのことを思いながら、写経をした。
涙は断続的に出続けた。

最後に、愛する人たちの名前を書いて、寂聴さんの横にある台に置きにいく。
もう顔見知りの人たちは、親しく言葉を交わしていた。
私は、お辞儀をするのが精一杯だった。

それでも、なにかしら心は落ち着いていた。

手紙は、秘書のような女性に手渡した。
「お渡しするだけでよろしいんですか?」と聞いて下さったが、「はい」と答えた。

それで私の気持ちはすっかり落ち着き、その後からは気も晴れ晴れと毎日を過ごしていけました―

とは、ならなかった。
帰りの新幹線でも、私の気持ちは相変わらず鬱々としていたし、
その後「鬱」の診断を受け、会社には出られなくなり、大変な一年だった。
ただ、年の終わりに、まるで歳末福引大当たりみたいに、一気に好転したが。


実際に拝見した寂聴さんは小柄で、そして厳しさを感じた。

今ならば、五十一と言えばまだまだ女ざかりともいえる歳だろう。
でも、その歳で寂聴さんは女を降りた。

「親しい人は、もうみんなあちらの世界にいってしまった」
寂聴さんは、死ぬことは怖くないんだろうな・・

もう男の人とのことも、するだけのことはした、という感じなのだろうか。
十二分に愛し、十二分に愛され、そして、周りを巻き込み
十二分に傷つけた。

勝手なことを言わせてもらえば、長生きしていただきたい。
なんだか元気が出るから。大丈夫、生きていける、と思えるから。

二十年以上「行きたい、行きたい」と思っていた寂庵に、「あの日」いけたのは
機が熟したということだったのだろう。
あの日が、私にとって一番、訪ねるにふさわしい日だったのだろう。

そのことで何かが急に変わりはしないが、私の中に小さな種が埋め込まれたのだと思う。

それが何時、芽を出すのかはわからない。
実はもう、芽を出しているのかもしれない。

でもとにかその種は、私が生きていく上で、何らかの力になるものだと思う。

地球の長い長い歴史の中で、今の時代に生まれ、何らかの形でそれぞれの存在を知る、ということは
もうすでにそれだけでひとつの奇跡だと思う。

私は自分が生きている時代に、瀬戸内寂聴という人が生きていてくれてよかった、と思う。

おそらく寂聴氏が傷つけた人たちの傷で、生涯消えないものはいくつもあるだろう。
それに関して、私は何も言う権利を持たない。
ただ、氏の存在は、多くの人々を救い支えた。
それについても、それ以上何も言う権利は私には無い。

ただ、「寂聴さん、ありがとう」と思うのみである。



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