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覚書「Dr. 倫太郎」 [ドラマ]

ドラマなんだからさ・・と、言われればそれまでの話である。
所詮ドラマなんだから、現実とは違っていたって仕方ないじゃない。
所詮ドラマなんだから、そんなことあるわけねえ!!と憤ったってしょうがないじゃない。
それはわかるけれども、覚え書きとして書いておく。


所詮ドラマなんだけれども、書く人間、作る人間には、「責任」というものがある。
誹謗中傷はともかく、様々な意見や批判には、謙虚に耳を傾け、己を省みるべきである。


不自然なところも嘘くさいところもいろいろあるが、
許せないことがある。
倫太郎である。

理想の精神科医などめったにいないし、だからこそ、こういうドラマを人は求めているのかもしれない。でも、見た人はその希望を打ち砕かれたね。

倫太郎はどうして夢乃を特別扱いするの?
そりゃあ恋しているからですよね?

脚本の中園ミホ氏にとっては、最も関心があり、尊いものは恋愛のようだ。
「花子とアン」を見てもそう思った。
燃え上がる恋、ちりちりと音を立てて胸を焦がしていく嫉妬の辛さ。
スーパー(と評される)精神科医と、辛い生い立ち境遇から精神を病んだ美しい女の恋を書きたかったのかなあ・・と推察する。


で。

脚本家の欲望を満たすために、精神疾患の患者が存在しているわけじゃないからさ。


女の患者に自宅訪問を許可したり、ラインしちゃう精神科医はいないから。

若すぎず、年寄りすぎもせず、ハンサムで暖かい精神科医には、診察希望の患者が押し寄せるはずだ。
そしてその中の多くの人が、愛情に飢え、庇護を渇望し、自責の念につぶされそうになりながら生きている。
倫太郎を標的に、ストーカーになる患者もいる。
その患者は、主治医が変った。
彼女は、倫太郎の夢乃の対する行動を知ったら、どんなに傷つくだろうか。
自分には許されなかった自宅で会うことも、「貴方は僕にとって大切な人なんです!!!!!」という言葉も、夢乃という女は許されている・・

患者の両腕をがっしりつかみ、「貴方は僕にとって大切な人です!! でも、男女の仲になるわけにはいかないんです!!!!」という精神科医はいません。

なんで謹慎中なのに、夢乃の診察には出てくるのですか?

泣きながら診察室を後にする夢乃。
呆然と残された倫太郎は、何かに気づいたように立ち上がり、彼女を追いかける。
そしてエスカレーターで降りようとしていた夢乃を力いっぱい抱きしめる。


あのね。
診察室の外、つまり待合コーナーと院内の廊下だからね、倫太郎の患者もたくさんいるでしょう。
「倫太郎先生は、ちょっとお休みしていて・・でも、代わりの先生が拝見しますからね」と言われて、不満と不安でいっぱいになった人たちも、その場所には居るはずだ。

そこをですね、当の倫太郎が女追いかけて走っていって、挙句抱擁しちゃうわけですよ。


私が倫太郎の患者で、その場面を目撃したら。
倫太郎の目の前で、夢乃を刺します。
もしくは、自分を刺します。


思うんですけどね、このドラマもそうだし、売れてる小説でもあったりするんだけど、
簡単に人死なしちゃったりね、精神疾患にしちゃったりね、だめだよ。
その方が話が盛り上がるんでしょ?

でもさ、駄目だよ。
どうしてもそういうこと書きたいんなら、腹括らなきゃ。
いい加減な気持ちでそういうことを入れちゃ駄目なんだよ。


あんなこと実際に病院でしたら、死人が出る。
だって、みんな自分の命かけて愛情を欲してるんだもの。
得られなくて得られなくて、ようやく自分をわかってくれる先生に出会えたんだもの。
その人が、自分以外の女の人を追いかけて、抱きしめてるのを見ちゃうんだもの。
「夢乃」になれなかった人たちは、絶望の中でようやく射した光に又絶望する。


実際の、精神科医と患者の対話、カウンセラーと患者の対話というのは、
命綱無しの綱渡りみたいなものだ。
ほんの不用意な一言が、相手の命を奪ったりする。
文字通りの真剣勝負なんですよ。



誰かのドラマや小説のために、人間の苦しみが存在しているんじゃないんだ。
そんなドラマや小説の書き手の満足手段のために、懸命に生きてる人たちがいるんじゃないんだ。


みんな必死で生きてるんだ。


もうそんなことも、この人たちにはわからないのだろうか。



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死ぬのを待たれるのは嫌なの! ! NHK「花子とアン」 [ドラマ]

「死ぬのを待たれるのは嫌なの! ! 」

大人気のNHKの朝ドラ、「花子とアン」の中の台詞である。


主人公花子が好きになった相手、村岡には妻がいた。

村岡の妻、香澄は、胸を病んで何年も臥せっていた。
当時結核は、不治の病である。
香澄は夫の気持ちが、自分以外の女に向かっていることに気づく。
そして身を引くべく、離婚を申し出る。

どういうことだと詰め寄る村岡に、香澄は言うのである。

「死ぬのを待たれるのは嫌なの!!」

これは、真実の叫びだろう。
でもそのもう一つ奥に、別の叫びがあるはずだ。

「あなたの心が離れていくのが嫌なの!!」
「あなたが離れていくのが嫌なの!!」

こちらの方が本当だろう。



栄治のモデル村岡と花子は、実際に不倫の恋をしていた。

ドラマでは、最終的には花子と村岡は祝福される。

香澄の叫びは、「あれこそが本心」と受け取られ、
まるで村岡と花子を促す言葉のように位置づけられる。

香澄さんは納得なんてしていない。
何をどうしても栄治と一緒に居たかったはずだ。

彼女の血を吐くような言葉を、自分勝手に解釈するな。

もしくはそんな都合のいい言葉を軽々に使うな。



「死ぬのを待たれるのは嫌なの!!」


この言葉を聞いて、嫌あな気分になったのだ。

その嫌あな気分には覚えがある。

数年前、書店で「余命一ヶ月の花嫁」という本を見つけた。

私は息が止まるほど驚いた。

本の内容は想像がついた。

この本を、当事者の花嫁がみたらどうするんだと思ったのだ。

「ご本人は、自分の余命を知っているんだろうか?
もし知らないでこのタイトルを見たら、
ショックで状態が急変しちゃうかもしれないじゃいか!1」


この本は、当事者の花嫁が亡くなってからでなければ、
出版できなかったはずだ。

ご本人は、自分の余命を知らなかった。
ご遺族のインタビューを拝見したが、
主治医に呼ばれ「余命は週単位と思ってください」と説明される。
病室に戻ってきたご家族に、当のご本人は、
「あと一年くらいって言われた?」と、問うのだ。


知らされなかった余命。
思っていたよりずっとずっと短かった残された時間。

それをタイトルに使われて、本は出版された。

関わった人たちの「心情」はどうであれ、
この本は、彼女の死を待って出版された。



「花子とアン」の原案になった、「アンのゆりかご」には
村岡氏と花子のラブレターが掲載されているそうだ。

著者のお孫さんにしてみれば、それは誇らしいものかもしれない。
けれど、それを世間に公表する、まして好意的に発信することは
理解できない。

日本人は、「人前で身内のことは褒めない」という信条で歴史を重ねてきた。
「別にいいじゃないか、いいと思うことはどんどん言えば」という考えもあるらしい。

慎み、奥ゆかしさというものが、なくなってきている。


恋に落ちた男女が熱烈な手紙をやり取りしても自由だ。
けれど、それは二人の間の「秘め事」であるはずだ。

先日、村岡花子に関するシンポジウムでお孫さん二人が出ておられた。

「当時、まだまだ日本では、妻は夫の三歩、五歩後を歩く時代だった。
けれど村岡夫妻は、よく一緒に散歩していたそうだ。
本当に仲の良い夫婦だった」

そういうことは、お身内の間だけで、微笑ましいエピソードとして
取っておけばよいものをと、正直思った。


恋などというものは、ほとんど狂気である。
周りの人間を傷つけずにはおかないものである。
けれど、それならそれを自覚する責任がある。

道ならぬ恋に殉ずるならば、世界中の人を敵にまわす覚悟をするべきだ。
そして自分たちが徹底的に傷つけ踏みにじった人がいることを、
肝に銘じて生きることだ。



「余命一ヶ月の花嫁」だとか、
「死ぬのを待たれるのは嫌なの!」などとう言葉は、
本人や、本人の心を思い遣ったら、使える言葉ではないのだ。

「余命一ヶ月」とは遠く離れた安全な場所に立つ人間のみが、
胸を引き裂かれる痛みを感ずることなく使える言葉なのだ。


当時不治の病とされた結核を患い、
愛おしい夫の身の回りのこともしてやれず、
抱かれることも抱いてやることもできなくなり、
風呂にも入れぬ饐えた体を横たえながら、
夫の心が若く健康な娘に向いていると気付いた妻。


どれだけ元気になりたかったことだろう。
ちいさい息子のことが、どれだけ気がかりだっただろう。
自分を責め、自分の運命を呪ったことだろう。

そしてどうすることも出来ず、ベッドに仰臥して
くすんだ天井を見つめ続けていたはずだ。

その妻を置いて、二人は想いの丈を綴り合っていたのだ。



繰り返すが、私は恋とはそういうものだと思っている。

けれど「花子とアン」では、
村岡と花子の恋を、礼讃するかのように描いている。

それが違うだろうと言っているのだ。


脚本の中園ミホ氏は、恋愛至上主義に見える。

村岡と花子は素晴らしいのだろうか?

村岡の最初の妻、香澄は、もうすっかり存在しなかったかのごとき扱いである。

香澄の無念を汲み取れないのなら、
村岡と花子の恋も、白蓮事件も、そもそも人間の心を
描けるはずなどないと、私は思う。




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「明日、ママがいない」 [ドラマ]

「明日、ママがいない」
脚本 : 松田沙也

正直にいうと、つまらないドラマだった。
質の高くないドラマだと思った。

現実とフィクションの区別がついていないから憤っているのではなく、
ドラマに描かれた現実が、あまりにも実際の「現実」とかけ離れているから
クレームがついたのだと思っている。

実は主人公のあだ名が「ポスト」であることは、そんなに大きな問題だとは思っていない。

もっと根本的なこと、どうしてこのドラマを作るのか?、このドラマで何をしたいのか?
グループホームで暮らす子どもたちの感情、心、
その子たちと関わって生きていこうとする人たちの感情、心が
全く描けていないところが問題なのだと思う。

施設がパラダイスだなど、誰も思っていない。
現につい先日、十年以上にわたって養護施設で入所者に職員から暴力が振るわれていたと
ニュースがあったばかりだ。


職員からの暴力や暴言、同世代の子ども達からのそれらは、
現実には、ドラマで描かれていたよりも、もっともっと巧妙に、陰湿に
表面には出てこないように行われている。
だからこそ、先の施設の暴力行為も、十年以上も表ざたにはならなかった。


クラスメイトの誕生日会に出かけた施設の子達に、
「ピアノなんて弾けないわよね? 
だってあなたたち、コガモの家の子でしょ?」などという子どもはいない、と思う。

そういうことは言ってはいけない。
そういうことを言う子はいけない子、恥ずかしい子だ、と子ども達はみな知っている。
それでも虐めたいから、もっと知恵を絞った方法で、相手を傷つける言動をとるのだ。


出てくる職員達も変だ。

里親候補の夫婦のところに幼い子を預けにいき、
その子の実の親のことを、その子が遊んでいるすぐ傍で夫婦に話す。

こんなことはありえないだろう、とこちらは思う。

「この子は虐待を受けていたんです。その虐待とは具体的には―」
「この子の母親はひどいギャンブル依存症で―」
という話を、すぐそばにいる子どもはじっと聞いている。


その里親候補の夫婦もおかしい。

不妊治療の末、結局子どもを授かれなかったという説明までは良いとして
妻が「この人の・・・のせいもあって」と言うのは変だ。
そういうことを他人に口にする夫婦の関係が上手くいっているとは思えず、
子どもを預けるにはふさわしくないな、と思うのではないか?

挙句、拷問のように子どもを裸にして風呂につけ、肩を押さえつけて
湯船から出すまいとする。
そしてその子がフラッシュバックと湯あたりでがたがた震えだして
土気色の顔をしても、救急車をよぶことを拒否する。

こんなことありえないって・・と、観ていて気分が悪くなった。


若い女性職員は、その具合の悪くなった子どもの運び込まれた病院の待合で
施設長に自分の体験を話す。
「私は子どものころ”おっとりした”子で、いつも母に「早くしなさいっ」と
手を強くひっぱられていた。
だから今でも、誰かと手を繋ぐことが出来ないんです」

彼女は社会人だ。
一度社会に出れば、子どもの頃のトラウマを同じ職場の人間に話すことは
先ず無いであろうと思う。
トラウマというのは他者にはわかってもらい辛いものだし、
「この人なら」と思って打ち明けて、わかってもらえず逆に批判されたりすると
ものすごく傷つく。
こんなに軽々しく話せるのは不自然に思う。

そして、彼女や彼女の上司同僚は、グループホームで働いているのだ。
トラウマを抱えた子ども達とは日常的に接しているはずで、
わざわざあのタイミングで話すのも不自然だ。(ドラマの進行上、あのタイミングで説明しておきたい
というのはわかる)

それから細かいことだが根本的なことを。

この職員にとって、打ち明け話がトラウマになっているならば
彼女は自分を「私はのろまで愚図な駄目な人間だ」、「私がてきぱき出来なかったから、
いつもお母さんに迷惑をかけた。私が悪かったからいつもお母さんは苛々していた」
という思考回路になるはずだ。
「私」は「悪い子」であったから、それを形容するときに「おっとりした」という言葉は使わない。
「のろま」「愚図」。
そういう否定的な言葉で自身を認識しているはずだ。


つまり、このドラマは根本的にわかっていないのだと思う。

「親に捨てられた」と一括りにしているが、親が子どもを育てられない事情は幾通りもある。
生木を裂かれる思いで手放した親も居るはずだ。
そもそも「捨てた」などという表現は、たやすく使ってはいけないのだ。


―捨てられたんじゃない。わたしたちが、捨てたんだ。

というキャッチコピーは衝撃的かもしれないが、そんなに簡単に
人は人を「捨て」られはしない。
憎み切れれば楽だろうけれど、憎んでも憎んでも、心の底に残る愛情が
子どもであれ大人であれ、人を苦しめるのだと思う。


脚本担当者も、製作者も、あまりにも安易だったと思う。

施設に暮らす子どもたちを主人公にするならば、徹底的に取材をし、
彼ら彼女らの心情を、よくよく推察しなければならなかっと思う。


笑えるところもあってほっとした、という意見も見た。

ドラマの中で、ああ、この箇所かなあというところはいくつかあった。
私は全然笑えなかった。
とってつけたようなコントは、ドラマの流れに全く合っていなかった。

施設に預けられた少女が、ブラッド・ピットとアンジェリーナ・ジョリーを
理想の両親とあこがれるのも、どうにも不自然に思えた。
彼女が渇望するのは、お金持ちでもなく、美貌の男女でもなく、
ひらすら自分を慈しんでくれるお父さんとお母さんなのではないのか。

番組サイトでは、局側からのメッセージとして
「愛情とは何かをこどもの目線から云々」と書いてある。
けれど、先ず製作者たちから「こどもたちへの愛情も配慮も」伝わってはこないのだ。


本であれドラマであれ映画であれ、どれだけ慎重に作っても、誰かを深く傷つけることはある。
正直、誰かを傷つけても描きたいことがある、というのが作る人の心情だとも思う。
けれど、だから何をやってもいい、というのは違う。


間違っていたらお詫びしたいが、このドラマは、きちんとした取材は行っていないのではないか?
親が育てられなかった子ども達に、きちんと話を聞いてきたのだろうか?
彼ら彼女らを育てた大人たちに、そして親として引き取っていった大人たちに、
話を聞いてきたのだろうか?


このドラマの脚本担当者は、それらの問いに明確には答えていない。

そしてドラマ第一回放送からしばらくして、この場ではお答えできないので、テレビ局にと答えている。

これはおかしい。
放送前に、友人知人と盛り上がり、どんどん宣伝して、
第一回放映後も、賞賛してくれる人にはお礼をいっておきながら
疑問を呈した人にはテレビ局に聞いてくれとは無責任すぎる。
だったら最初から、ドラマに関することは一切ふれなければ良いのだ。


時代が変わって放送しにくくなったという意見もあるが、根本的には違うと思う。
視聴者を舐めてはいけない。
見る側は、ちゃんと感じ取っているのだ。
誠心誠意、命を削るようにして作られたものか。

過去に、同じようなテーマのドラマもあった。
こんなに雑なものではなかった。
子どもを手放さざるを得なかった母親の思いも、その後自分を責め続けた思いも、
その母を憎みながらも憎みきれない子どもの苦しさも、ちゃんと描いてあった。
私は二十年以上前に見たそのドラマを、いまでも時々思い出す。



このドラマに登場する子ども達も、大人達も、みんな心に傷を負っている。
深い深い傷だ。

他者の傷を、興味本位で扱ってはいけないのだ。

ドラマだから、テレビだから、フィクションだから、などという大義名分は立たない。

傷を覆った手を払いのけ、じろじろと眺め、突き、指を突っ込み、かき混ぜ、
傷口を大きく開いてはいけない。
治すことが出来ないのなら、他者の傷に触れてはいけない。


製作者の姿勢そのものが間違っていたのだと思う。

局側は、どうか最後までご覧になったうえで判断してほしい、と言っている。
最後まで見たところで、スタートの姿勢や認識が誤っているのだから、
大きな変化はないと思う。

ドラマはつまらなくなったな、と思う。



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「江~姫たちの戦国」、意味不明 [ドラマ]

小さい時から、日曜日の夜八時は「大河ドラマ」を観てきた。
途中何回か中断した年があったが、ここ十年くらいは又観るようになっていた。

「江 -姫たちの戦国」を見ている。
このドラマが何を言いたいのか、さっぱりわからない。

なんだか話のつながり、時間軸もよくわからない。

登場人物たちの細やかな心理など、わかろうにも描かれていないから皆目不明。

実はもう、「ドラマ」としては破綻しているのではないか。


最近数回、少し雰囲気が変わったなと思ったら、番組オープニングのクレジットに、
「脚本協力」として田渕姓のお名前があった。
田渕久美子氏のお兄様らしい。



かつて敬愛する久世光彦氏が、
「テレビっていうのは恐ろしいもんでね。
どんなに隠したつもりでも、役者その人の"素"が出ちゃうんだ」
というようなことを書かれていた。

私はこのたび、役者さんだけでなく、その現場にいる人たち、その現場の空気をも、
テレビは映し出してしまうということがわかった。

正直に申し上げれば、あのドラマに出ている俳優さん方には、お気の毒な気さえする。
あの脚本では、魂込めて演じる気持ちにはなれないだう。

主演の上野樹里は、此処一月くらい、表情のパターンが3つ程しかない。
北大路大御所、加賀まり子ベテランは見られるおしばいだけれど、
さぞや演じづらいだろうなあ・・と、思って拝見している。


田渕氏は、このドラマでいったい何を訴えたかったのだろうか?

番組が始まる昨年の予告編では、まだ幼い江が、それでも思いつめた真っ直ぐな瞳で
「今は、ただ前に!前に進むのみにございます!」と、白馬の手綱を握り締めていた。

お市の方は、「女の戦は生きること。本日只今を生きることにございます!」と、
実兄織田信長を見据えて言い切っていた。


それから一年が経って、今はこれだ。


最近の大河ドラマは言葉遣いが変だなあ・・と思っていたら、
どうやら数年前から、視聴者にわかりやすいように現代風にしているらしいと読んだ。
それ自体間違いだと思うが、今年の「江」は酷すぎた。


すごーい。
そうですよね。
○○してください。
そんなことはあたりまえです!
早く帰って、○○様とこどもを作るのじゃ。


そして、立ち居振る舞いも酷すぎる。

どうして姫たる立場の方々が、突っ立ったまま物を言うのか。
二の腕まで見せて手を振っているのか。
お菓子を立ち食いしているのか。

数え上げればきりが無い。

田渕氏は、おそらく日本史があまり好きではないのだろう。
そもそも興味自体が無いのではないか。

それならば。

どうか「大河ドラマ」は御遠慮いただきたかった。
「大河ドラマ」を書かれるならば、日本史とがっちり向き合う覚悟が欲しかった。


田渕氏のいろいろな発言を、目にする機会があった。
それはラジオにゲスト出演したときのものや、雑誌に掲載されたものの一部であるから、
前後の言葉がわからず、誤解を生んだものもあったかもしれない。


正直言って、失望した。

いろいろな発言の中に、
「大きな災害があって、見ている人たちを勇気付けるような話を書くのも自分の任務だと思っている」
という趣旨のものがあった。

だから尚のこと。
一つ。
どうしても許せない科白がある。


二番目の夫を戦地で亡くした江が悲嘆にくれた日々を送っている。
姉の初がやってきて、なんとか妹の気持ちを引き立てようとする。
そして、その幾つ目かの試みで、同じ経験を持つ、側室龍子のもとを訪れる。

自分も戦で夫を亡くした、と龍子はいう。
その後敵方の側室になるのはさぞやお辛かったでしょう、と初が尋ねるが
龍子はあっけらかんとしている。

どうすれば、夫を亡くした悲しみから立ち上がれるのかと問われて、
龍子はしばし考えて答える。

「死んだ人は最初から居なかったと思えばいいのよ」


地震と津波の後の話である。

私は最初意味がわからず、わかった直後に体が硬直した。


「死んだ人は最初から居なかったと思えばいいのよ」

「死んだ人は最初から居なかったと思えばいいのよ」


体の中を何か激しい思いがぐるぐると駆け巡っていたが、
その激しい思いの正体がわからない。

今ならわかる。

怒髪天を突く。激しい怒りだ。

何故そんな科白を吐かせるのだ!?
未曾有の震災で、家族を、大切な人を、亡くした、自分が死なせてしまったと
悲しみのどん底に何万という人がいる時期だ。
いったいどうしてこんな言葉を書けるのか?
この科白を削ろうという意見は無かったのか?
この放送を誰が許可したのか?

一言でいえば
「ふざけるな!」だろう。

ふざけるな!
ふざけるな!
ふざけるな!

目の前で、家族が波に飲まれるのを見た人がいる。
自分ひとり助かって、自分を心配して戻った子供が亡くなった老母がいる。
「助けてあげられなかった」と言って、いきなり顔を覆って泣き出す人がいる。
何十人もの小学生が、そばに親も居ないで、一人で恐怖に耐えながら亡くなった。

「死んだ人は最初から居なかったと思えばいいのよ」

それは、ドラマの上で、どうしても必要な科白だったのか?
違うと思う。

おそらく多くのクレームが寄せられたのだろう。
それから数週間後の放送内で、秀吉を亡くした龍子は、江に
「あの時はごめんなさいね。本当に、ごめんなさい」と、
自分の言葉を謝った。

でもね。
電波にのって日本中に飛んでいった言葉は、
そのまま数多の人々の胸を突き刺した言葉は、
くさびのように抜けないからね・・・


田渕氏がかつて脚本を担当された「篤姫」は、どうもおかしい・・と思うところも多々あったが、
それでも心が打たれる場面がいくつもあった。
それは今にして思えば、宮尾登美子氏のしっかりとした原作と、
田渕氏のお兄様の協力があってのことだったのではと感じる。


ラジオでご自身の執筆中の作品のことを話したりなどしてくださらなくてよい。
ブログに「いったいいつまで大河の脚本を書かなければいけないのか・・」
「遂に書き終わった。私は自分を褒めてやりたい」などとくだらないことを書いている時間があったら、
真摯に歴史の勉強をして欲しかった。



私は、大河ドラマは、日本の時代劇の最高峰だと思っている。
衣装、調度品の高価さ、化粧の美しさも、他の時代劇より段違いにすばらしいと思っている。
けれど、最近の「江」を見ていると、衣装や調度の豪華さよりも、
現場に漂う「なんだかもうどうでもいい」というような白けた空気の方が強くこちらに伝わってくる。

予算も、準備期間も、桁違いに少ないはずの民放のドラマ「Jin-仁」の方が
遥かに大河ドラマにふさわしいように思えた。

そのドラマに携わっている人全員が、「良い作品を作りたい」と強く願い動いていることが、
その空気の熱い温度が伝わってきた。
私は見ながら毎週泣いていた。



大河ドラマは何処に行こうとしているのだろうか。


大河ドラマは、昔のままでよいではないか。

視聴者におもねず、骨太で、脚本担当者はしっかりと日本史の勉強をして臨んでいただきたい。
数々の大河ドラマの中のいくつもの場面は、私の中に深く食い込んでいる。
おそらくは、脚本家の方が命を削るように書き、俳優、演出、それぞれのスタッフが、
力の限り取り組んだ仕事だったのだと拝察する。


脚本を書き終えてご自身を褒めることをなさっても、反省はされないのでしょうか。

画面に現れる「大河」という冠を、今からでも外してはいただけないのでしょうか。



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野沢尚「この愛に生きて」 [ドラマ]

私が子供を持たなかった理由は、突き詰めていけばただ一つ。
「子供を殺してしまったらどうしよう」と怖かったからだ。

故意にではない。
抱いているとき落としてしまったら・・
ちょっと眼を離したすきに・・
そして、私同様に、自分の身内の過失で赤ん坊が命を落としたらと思うと
怖ろしさは倍増した。

逆PTSDのように、私はそのときの光景に簡単に入ってしまった。

大声で泣きながら、地べたに顔をこすりつけて謝る私の親。
大きく眼を見開いて、呻くように泣いている私の夫。

私は「そこ」にいた。



この作品では主人公の情事の最中に子供が連れ去られ惨殺される。
ああ・・
こんなに残酷な状況があるだろうか。
自分だったら気がふれるだろう。
否。いっそ気がふれたら楽だろうが、意識ははっきりと、自分のことを責めさいなむだろう。
主人公は、よくいる主婦の一人だった。
幸せといえば幸せ、心が決して満たされないという意味では不幸せだたのかもしれない。
妻のいる人に恋をして、若干二十歳で結婚。
子供を一人もうけた。
二度目の妊娠で流産。それがきっかけで、子供を産めないからだとなる。
夫婦の仲はいつか冷めている。セックスも無い。
そしてあるとき、夫の浮気をしることとなる。
相手はこともあろうに、元の妻だった。

この主人公を、結婚したばかりの安田成美が演じている。
いろんな役の彼女を見てきたが、このドラマが一番美しかった。
雑多なものを削ぎ落としたようなセシルカットが良く似合った。
細い首が一層細く見えた。

主人公はひょんなことから行きずりの男とベッドをともにする。
彼女も、男も、どん底の時だった。
この出会いは互いを癒した。
自分自身が手負いの獣の様だったときに、この二人は相手を慰める存在になりえた。
こういう出会いは貴重なのかもしれない。

一回限りで別れたはずなのに、彼女は彼が忘れられなかった。
どうしてももう一度会いたくて、無謀なことをする。
惚れた男に再会したいと思いつめると、八百屋お七も人魚姫も、女は周りが見えなくなるらしい。
危ない橋を渡ってやっと彼を見つけた時、主人公の心の底から幸せな笑顔が深く心に残る。

「・・・探した」
見ているこちらまで心が暖かくなるような笑顔だった。

二人は、昼間彼女の子供が学校に言っている間にホテルの部屋で会うようになる。
それを重ね、「やっぱり別れよう」と主人公が決心し、涙ながらに別れた後で
又会ってしまう。
そしてその間に、彼女の子供は消える。


セックスは快楽だ。
例えば強迫的な考えでは、自分の楽しみを封じることで、何かの成就や誰かの健康を願うことがある。
私には、その考えも消えなかった。
母が生きていたとき、私は男の人と交わることが出来なかった。

彼女の子供は重体で発見されるが、命を落としてしまう。

彼女は自分を責める。
初七日が終わり、彼女は実家から姿を消す。
どこの組織にも属さずに、街で体を売る女になっていた。

この時期の彼女にとっては、自身の苦痛がなによりの慰めなのだ。
もっと痛めつけてほしい。そうすれば死んだ子供に少しは顔向けできる。
このまま殺してほしい。そうそれば子供の側にいける。

そんな荒みきった彼女をすくい上げたのは、逢引を重ねた彼だ。
彼女は幸せになることから逃げた。
自分は決して幸せになったりしてはいけない、と戒めた。
けれど彼は、幸せになろうと言った。

幸せになろうとすることは怖い。
けれど彼女は彼に手をひかれ、もう一度幸せになろうとした。

彼とともに子供の墓に詣で、手を合わせながら
「ママもう一度幸せになりたいの」という彼女に
私は驚いた。
自分なら、幸せになることから逃げ続けるだろう。
彼女にとって、こどもに向かい「もう一度幸せになりたい」と言う事は
どれだけ勇気の要ったことだろうと思う。


物語の最後。

彼女は復讐を遂げている。
その行為は犯罪だったから、彼女は手錠をかけられる。
かけるのは、彼女と愛し合った男だ。

ドラマの第一話で、二人のこの関係を想像することができただろうか?

一つの手錠で手首をつないだ二人は、まるで心中する男女のようだ。
けれど二人が向かうのは「生」だ。

彼は、彼女を抱きしめて言う。
「終わった。終わった」
「後は、俺たちの未来だ」

未来が幸せなのかそうでないのか、だれも知らない。
けれど今生きている人間は、幸せを望んでよいのだ。

私は、ずっとずっと昔から、自分は幸せを望んではいけないような気がしていた。
私が幸せを望まなければ、私の大事な人たちが安全でいられるように思っていた。

それはきっと、おろかな人間の思い違いなのだ。

失敗を重ね、気づけば嘘さえも吐き、わざと誰かを辱め、
そしてそれでも懸命に生きた。
私たちは幸せになろうとしていいのだ。



野沢氏の多くの作品の中で、このドラマにはとても強く惹かれる。

ことさらに多くの試練を与えられたこの主人公の名前は「曙美」あけみ。

あけぼのに、うつくしい。

彼女は自分の名前をそう説明する。

曙に美しい。

曙は全ての始りである。
漆黒の闇に光が登場する時間である。
まるで焦らす様にゆっくりと、太陽は地の底から上ってくる。
空の色は黒、灰色、群青、白、朱、と変化し続ける。

絶望という漆黒から、彼女は立ち上がってくる。
転びながら、躓きながら、血を流してゆっくりと立ち上がる。

曙に美しい。

曙は美しい。

あなたの未来を誰も知らない。
けれどどうか幸せで在れと、私は思った。



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「篤姫」残念 [ドラマ]


とても人気があるようなので、こういうことを書くのはどうかと思ったのだが。

現在放映中の、大河ドラマ「篤姫」である。

私はこのドラマに「大河ドラマ」と冠するのは、正直やめてほしいと思っている。


このドラマを見ていて、演技の厚みというものを初めて実感したように思う。

象徴的な場面がある。

於一がお城に上がり、広川を始めとする侍女たちに内心蔑まれているときだ。

香道の師匠、近が持参した実母からの手紙を於一が読む。
そして、密かに添えられていた、自害した老女菊本からの手紙も読んだとき。

於一はこのとき「覚醒」する。

分家といえども、礼儀作法はきちんと仕込まれ、島津の血が流れる一人として誇りを持って生きてきた。

その誇りを取り戻すのだ。



「いろいろな方にお仕えして参りましたが、ここまで手を焼かされる姫様は初めてにございます」
そういう広川に、立ったまま(ここからして既におかしいと思うが)於一は尋ねる。

「広川」

「はい・・」

「そなた誰に向かって物を言うておるのじや。」

「はっ・・?」

「我は島津斉彬候の娘にあるぞ」


一同「ははーっ!!!」と平伏す。



前の週に、この部分の音声だけが予告で流れた。

大変申し訳ないが、その予告編を見たとき、この部分はコントだと思ってしまった。



分家から本家に上がった姫としての、自覚―というか覚悟が感じられなかったのだ。



この大河は、毎週高視聴率なのだという。

「女性や子供にも受け入れやすいよう」
「血や、合戦の場面は少なく」
「家族皆で楽しめるように」

工夫したのだとNHKは言っているらしい。


ずいぶん舐められたもんだな・・と、思う。


今までいろいろな大河ドラマを見てきたが、血が流れようが合戦の場面であろうが
家族皆で楽しめていたのだが。

母も私も十分楽しんできたのだが。


NHKの作り手は、何か勘違いをしていないか?


血が流れる場面を、ただの「流血」としか婦女子は見ていないとお思いか?

そこに至るまでの、切る側切られる側のいくつもの葛藤や
刀を握る手にこめられる力と思い、汗ばむその手に力をこめた時の登場人物の心情を
婦女子は感じていないと思っているのだろうか。


昔々「天と地と」。

しっかりと記憶に刻まれた場面があった。


踏みつけられた雑草が残る地に、大将と思しき男が腰掛けている。

兜の下に、歌舞伎の「連獅子」で見るようなみごとな白い毛が溢れている。

その大将に向かって、霧の中勢いよく一頭の馬が一直線に近づいてくる。

馬の足元に視点を置いて、どんどん大将に近づいていく。

待ち受ける対象の瞳のアップ。



これを見たとき、おそらく私は幼稚園くらいだったと思うが、しっかりと記憶に残っているのである。

この緊迫感、映像の美しさ。
そういったものは、五つの女の子の記憶にもきちんと刻み込まれるのだ。



女子供を馬鹿にしないでいただきたい。

「この程度でいいかな」とは、思わないでくださいね。



だいたい「篤姫」、このドラマは時代考証はどうなっているのだろうか。

どう考えても「その言葉遣いは当時はなかったんじゃない?」と言うものが
いくつもいくつも出てくる。

於一は分家といえども武士の娘として、きちんと学問や行儀作法をしつけられていたのではないのか?

何故、お城に上がってから、箸の使い方やお辞儀の仕方を習わなければならないのか?
それも、ある程度出来上がっているのを、より完璧にするというのではない。
端から全然出来ないではないか。

だいたい内掛けのさばき方を教わって、なおかつ出来ないなどありえないと思うのだが・・


宮崎あおいは、わりと好きな女優だったが、今回の役に関してはミスキャストだと思う。

あれでは鬘をつけて着物に着られて、中途半端な昔の言葉を使っている「現代劇」にしか見えない。


斉彬が城に戻ったから、嬉しくて嬉しくて顔をほころばせながら早足で部屋に赴く「気持ち」はわかる。

けれど当時の「姫」が、ああいう態度をとるのだろうか?


琴もろくに弾けなければ、鼓も打てない。

なぎなたもヘロヘロ。

不得手なら不得手でよいが、あんな情けない声を出したり、仏頂面をしたり
ありえないだろう・・と、見ていてあきれてくる。


「宮崎あおいの表情が、豊かでいい」という評も読んだ。

しかし、あの当時の「姫」は、今の基準の「豊か」な表情は、慎みが無いものとされていたのではないか?


まぶたに目玉を描く― などというコントを、いったいあと何回見せられればよいのだろう。



オープニング映像は、よく出来ていると思う。

音楽も流れるように美しく、時に物悲しくなる調べは
篤姫の心情を思わせ、私も思い出してふと涙ぐむときがある。

けれど。

影絵の様に篤姫が登場する最初の場面。

内掛け姿で顔を上げ、ゆっくりと歩む横顔。

これはさあ、現代劇ではこういう場面はきれいだけど、
当時のあの位の人は、打ち掛け着て顔上げて歩かないと思うんだよね。


桜の花を見上げて、という設定なのだろうと推測するが。




「大河ドラマ」と銘打つならば、どうか「大河ドラマ」に見合ったものを作っていただきたい。

わざわざ変なコントを見せなくても、現代語を使わなくても、
十分に視聴者を楽しませ、涙させることは可能だと思うのだけど。







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「結婚前夜」野沢尚 [ドラマ]

野沢尚氏・脚本。

約10年前のドラマである。
 私の記憶を頼りに書いていくので、セリフの細部が違っていたりするかもしれない。
平にご容赦をお願いしたい。


東京の、下町情緒が残る場所で暮らす一家。
ガラス職人として生きる父。
妹が一人。
母は、前に父の元を去り、別の男と生きることを選んだ。

主人公の奈緒は、内気でおっとりとし、おしゃれなどにもあまり関心をもたず
地味で、どちらかというと少々野暮ったいくらいである。
父と同じくガラス職人で、父の仕事を手伝っていた。
ドラマでは夏川結衣が演じていた。

この奈緒が、幼馴染の雅人とお付き合いをする。
雅人から誘ったのだが、実は雅人はその時婚約者に振られて自棄になっており、
奈緒に惚れて誘ったのではない。
結局雅人は婚約者とよりがもどり、
奈緒は傷つく。

話はそこで終わるかと思うとそうではなくて、
雅人の父親、ミステリー作家の盾夫が登場する。



盾夫は奈緒を、どんどん外の世界に連れて行く。

ドライブして海辺のレストラン。
正装してのパーティー。
趣のあるバー。

奈緒はだんだんに変わっていく。

それまでの野暮ったい女の子から、
恋する女に洗練されていく。


奈緒は盾夫に惚れる。

あのおとなしい女の子の、どこにこんな情熱があったのかと思う。

だがしかし、従順に男に従い、自己主張をせず、
いつも少しはにかんで、他者に先を譲るような女にこそ
「激しさ」は潜んでいるのだ。

盾夫も奈緒に惚れている。

その中年男の微細な心理状態を、橋爪功が見事に演じている。

彼には十五年来の、恋人が居るのだ。
彼の行きつけのバーのママ。
このなんとも色っぽく物分りのいい女を、余貴美子がこれまた見事に演じている。

その歳の男であれば誰にもあるように、盾夫にも辛い辛い過去があった。
盾夫は飄々と生きているように見える。
実際、飄々と生きているんだろう。

しかし、胸の底には生涯消えない傷がある。


このドラマの脚本執筆にあたり、野沢氏が語っておられた。

「―橋爪功。
 この色気のある俳優さんと、いつか仕事をしたいと思ってきた」

男の作家は色っぽい人が多いけれど、
この橋爪功も色気があった。

色気は、きっといろんな事に耐えている人の方が発しやすいのだ。

盾夫の負った傷を、このバーのママは知っている。

ドラマの回を重ねるたびに、奈緒はどんどん恋する女へと変貌してゆき
この女の塊みたいな彼女と「対決」しに行くのだから
女は恐ろしい。

いろいろなエピソードがあり、お互いを思っている奈緒と盾夫は
お互いの想いをそのままに、もともとのパートナーと結婚しようとする。

しかし、「結婚前夜」、奈緒は「はじけて」しまう。

盾夫のもとへ走ったのである。




あの、純情内気だった奈緒が、親子ほども歳の違う男を誘い出して
駆け落ちする。

干草を積み込んだ列車に飛び乗り、盾夫と向かい合う。

「どうした。急に恐くなったか?」

盾夫の問いに奈緒は答える。

「ぜんぜん」
強いねえ・・・



夜の間、二人は干草に寄りかかり、列車に揺られ続ける。
しかし悲しい哉、列車には「終着駅」というものがある。
終着駅についたら、乗客は列車から降りなければならない。


明け方の坂道を、二人が歩いている。

今日は結婚式の当日である。

奈緒は放心したような顔である。

どんなに現実に逆らったつもりでも、
結局はこうして現実に引き戻されてしまうのか。
こんなに隣にいる男に惚れているのに、
なのにその人ではなく、彼の息子と挙式をあげるのか。


盾夫は立ち止まって言う。
「俺、夢見てた。いい、夢だった」

そして奈緒の方を向いて問うのだ。
「君は?」

奈緒は、恨めしそうな顔をして答えない。

盾夫は再度、今度は大人の男として、諭すように強く言う。
「君は?」

奈緒は、叱られた幼女のように拗ねたまま言う。
「あなたと・・同じ夢」


なんといいセリフだろう。

盾夫は大人で、そして奈緒を本当に大切にしていたのだ。

だから、彼女を抱かなかった。
そんなことしたら、ただの安っぽい不倫ものになってしまう。

でも好きだったことははっきりと伝えた。

何故なら彼は「夢を見ていた」のであり、
そしてその夢は「いい夢だった」のだから。

奈緒も盾夫が本当に好きだった。
なので奈緒が見た夢も、「盾夫と同じ」「いい夢」だった。


二人は花屋の軽トラと思われる車に頼んで乗り込み
式場に向かう。

「こんなに簡単にいい女にすることが出来るんだから
いい妻にすることだって簡単でしょう?」

すごい。奈緒は未だ諦めていなかったのだ。

盾夫は知らん振りしている。

奈緒は「やっぱり駄目なのね・・」という顔をしている。

やおら盾夫が、「まったくしょうがないなあ。生涯の秘密だぞ」と言って、
着ていたジャケットを脱いで、花で溢れる荷台に広げる。
「着いたら料金払わなくちゃな・・・」などと言いながら、
花の冠を編み始めるのだ。
冠が出来上がると、ちょっと照れくさそうに、でも厳かに宣言する。

「ええ・・これから、二人の心の結婚式を執り行います」

花の冠を被せられた奈緒が、満開の花ような笑顔になる。
なんの邪気もない、赤ん坊のような笑顔で泣いている。

そして盾夫は、小さな花で作った結婚指輪を
奈緒の左手をとって、その薬指にはめるのだ。

彼女の笑顔は続いている。
幾筋も流れる涙も続いている。

セリフの無い彼女の笑顔が、彼女の心を全て語っている。

私はこの場面を観ながら涙が溢れてとまらなかった。

心から奈緒を祝福した。


そして。

二人の「心の結婚式」は終わり、奈緒は満ち足りた表情で
静かに、花の指輪を外す。

当時、私はどうしても不思議だった。

何故、奈緒は、盾夫のつくった大事な指輪を外してしまうの?

きっと、奈緒の気持ちはもう「成就」したのだ。
奈緒の思いは、遂げられた。

「想い」は、もう十分に満足だったのだ。

二人が心で結ばれたことは、二人以外誰も知らない。

あの荷台に詰まれた色とりどりの花たちが見ていただけだ。


式場に着いて、奈緒は雅人に聞く。

「心配した?」

雅人は言う。
「当たり前だろう」

夫になる人の声だ。

少しして、仕度を整えた奈緒が出てくる。

清楚に、控えめに施された化粧に真っ白なウェディングドレス。

それを見た盾夫が、ちょっと悔しそうに、でも心の底ではこれでよかったんだというように
首をかしげて苦笑する。


NHKで放映されたこの作品が、私はとても好きだ。

ささやかだけど洒落ていて、人の罪も、愚かさも描かれ
そして愛する人間のその部分も、自分はきちんと引き受けると覚悟した人間が出てくる。

出てくる人がみんな愛おしい。

私は歳の離れた男の人が好きなので、
盾夫さんみたいな人が現れたらきっと好きになってしまう。

「心の結婚式」を、誰かと挙げてみたいかな・・・



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「ハゲタカ」 [ドラマ]


面白い!NHK土曜ドラマ「ハゲタカ」。

この枠は完成度高いドラマが多いなあ、と思うのだけど
昨年の「クライマーズハイ」に続き面白い。

なのに初回、第2回と見逃して第3回の株主総会から見た私は悔しい・・・

経済に関しては、全くなんにもわからない私だけれど
とにかく、この話の展開、スピード感、緊張と弛緩のバランス、
カメラの角度、音楽のタイミング、
出てくる俳優のレベルの高さ(一部除く) etc.

いやー、引き込まれます。

大森南朋というと、どうしても「洗いグマ」を思い出してしまう、その可愛らしい風貌。
しかし映画「ヴァイブレータ」で、主人公の想像、として
娼婦の元締めみたいな役をやっていたのは、妙に似合っていた。

でも、あの可愛らしい風貌と今回の役どころがマッチするのか?とちょっと不安だった。
見始めて少しの間、前髪分け額出し、ふち無しめがねに深刻な表情に戸惑ったが慣れた。

いいじゃん、いいじゃん!似合ってるじゃない大森南朋!



昨日の回で、完璧に参りました。

会社を解雇され、自宅のソファにネクタイをはずし、チョッキとズボンだけで疲れ切って寄りかかってる。

男の人の一番セクシーに見える状況だなあ・・と、再認識しつつ見入る。


この人が、インテリっぽい顔をするとき、眉毛を寄せて相手を下から見上げるとき、
顔をゆがめて怒りを抑えているとき、ゆとりをもって相手と対峙しているとき―

正直こういう演技が出来る人とは思わなかった。

恐い顔をすると、父君に似ている。

このドラマは本当に面白い。

誰かがたとえていたけど、「華麗なる一族」と比べるとよくわかる。
「華麗」は、ほんとにきちんとした役者揃えて作れば、これくらい面白くできたのに・・

青空電気会長のモデルは松下幸之助?と、思う。
いまどき松下幸之助ははやらないだろうと思っていたが、
自分の知り合いや、友達と話しても
実はまだまだ多くの信奉者が居ることを知って、驚いた。

松田龍平は松田優作によく似ている。
よく似ているが、厚みが無い。
「ああ、松田優作がよくこういう表情、こういう目つきしてたなあ」と、
画面を見つめるのだが、優作に感じた底知れぬ凄みは感じない。
薄い、のだ。

10年前、田中裕子がお弁当屋さんのパートさんで、
そこに毎日毎日通ってくる、白衣着た学生の役をしていたのが大森南朋だった。
今回調べて知ったのだけど。

ラスカルのようなかわゆらしさと、インテリっぽさと、悪い奴振り―

息の長い俳優さんになりそう。

最終回、期待して見よう。


追記 すごくいいドラマなのに、HPに
「渋谷で働くドラマディレクターの日記」なんてコンテンツ置くのやめてほしい。
自己紹介とかいらない。
しかもその内容がつまらない。くだらない・涙

番組スタッフのコンテンツに普通に書いてくれればそれでいいんだけど。
私としては・・
嫌だなあ・・こういうの載せちゃう神経・・
せっかくのドラマまで、あほっぽく見えてきちゃうよ。



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「華麗なる一族」 改め「華麗ならざる一族」 [ドラマ]


ありゃちょっと酷すぎでしょう?

原作者の山崎豊子大先生は大丈夫なのか?
毎回毎回放映が済むたびに、テレビ局の誰かが菓子折りでも持って
謝りに行ってるんじゃないの?

と、いうくらいひどいよ~。

数年前に、「白い巨塔」がリメイクするときも「絶対に失敗する」と思った。
というか、「白い巨塔」はもう田宮版を超えるものは出てくるわけが無いのだから
何を考えて今頃・・と思ったのだ。

もちろん唐沢版は田宮版とは比べられるレベルではなかった。
しかし、健闘はしたと思う。

だけど「華麗」は駄目だよ~。

私はこの原作がすごく面白かった。

すでに映像化はされている。

しかも今回のドラマ化に関しては、時代設定は当時のままというではないか。

テレビ局の力の入れようはすごかった。

キムタク・・・
吉と出るか凶とでるか。

一瞬でも期待した私が馬鹿でした。

実は第一回は見ていない。
そしたらネットで「肖像画」と「鯉の将軍」で大盛り上がりになっている。

何それ?
それを確認しようと見てみた。

いや~、あのドラマで何が凄いって、あの肖像画を見ながらシリアスな演技をする
北大路欣也が一番凄いよ。
普通あの画を見ただけで吹いちゃうよ。

小学生が描いたんですか?って言うようなキムタクの似顔絵みたいなものの
額に茶色い波線みたいなシワ・・・
「とってつけたような」ヒゲ・・・
よくあんなもの見ながら、北大路欣也はあんなおっかない顔ができるもんだ。


あれはあれとして―

キムタクはやっぱり失敗だったと思う。
否、キムタクのみならず、北大路欣也以外、原田美枝子、鈴木京香あたりを除いて
ほとんどの主要メンバーは失敗だったのではないか。

キムタクを筆頭に万俵家の子供たち、鉄平・銀平・一子・二子、誰一人として
「財閥の子息・令嬢」には見えない。
例えばキムタクが工場の食堂でご飯を食べている。
それは、財閥の坊ちゃんが、その気さくさから皆にまじって食べているようには、
どうしても見えない。
現場で作業している男の人が食べているのとなんら変わらない。

山本 耕史にしたって、本来もっと上手な俳優さんだと思うのだがどうしちゃったんだろう?
妻役の山田優の、あまりの低レベルに引っ張られたわけでもなかろうに、
なんであんなにうすっぺらくみえてしまうんだろう。

二子にいたっては、もう何をかいわんやで、あんな「令嬢」昭和四十年代のどこにいたんだよ?
ってなひどさである。
品性とか知性とかにじみ出る慈悲深さとか謙虚さとか、かけらもない。

二子が鉄平を訪ねて、工場に来た場面があった。
鉄平はいつものように、現場の作業員と一緒にプレハブみたいな食堂で
二子を誘って昼ごはんを食べる。

その時の二子が酷すぎる。
周りをまさに「汚いものでもみるような」目つき顔つきで見回して、
「お兄様、いつもこんなところで召し上がってるの?」とか聞くのだ。
うぇ~~~・・・って顔で。

こりゃ駄目だな・・と、見ながら思った。

「令嬢」はそんな顔しちゃいけないのだ。
周りの人を馬鹿にするような態度をとってはいけないのだ。

いまどきのカップルがデートして、男の子に定食屋につれてこられた設定じゃないんだからさ。

誰も彼も厚みが無い。

六十にしろ二十歳にしろ、その人がそれまでに歩んできた道のりがまったく見えない。
感じられない。
唯一、強烈にそれを放っているのが「万俵大介」役の北大路欣也だ。

表面をどうがんばって「それらしく」みせても、やっぱり内側から出さないと
そういうものはどうしようもないんだな、とあらためて感じた。

全然「華麗なる一族」に見えない。
ごく普通の庶民が、形だけ華麗なる一族を演じて、ちっとも様になってない。
そんなふうに見える。

俳優さんがどんどん小粒になってきてると思う。

かの渡辺謙がほぼ無名に近いにもかかわらず、大河の主役「独眼流正宗」を演じたとき
彼はこの北大路欣也と十分に真っ向勝負をしていた。
けっしてひけをとっていなかった。
その二人の絡む場面からにじみ出る密度の濃い空気は、見ているこちらにしっかりと伝わった。

「華麗なる一族」

残念だったなあ。
大好きな小説だったのになあ・・

山崎先生も悔しかろう。



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「魂萌え!」 [ドラマ]

かつて桐野夏生は「ファイアボール・ブルース」の後書きで、
「女にも“荒ぶる魂”があることを書きたかった」と述べた。

そして彼女は、普通の世界に住む女が、ひょんなことからダークな世界に足を踏み入れ
その中での荒ぶる魂を描いてきた。
「OUT」しかり、「グロテスク」しかり。

その桐野夏生が、日常生活の中で今まで本人が気づかなかった荒ぶる魂を描いたのが
この作品だろう。

書店で平積みされた、鮮明なピンクを多用した、花を象徴する表紙と帯の文に惹かれ
いつか読みたいと思っていた。
と思っていたところが、テレビ化映画化されると聞いた。
主人公は、前者が高畑淳子、後者が風吹ジュンである。

で―
先日、テレビの再放送、一挙三時間を見た。
私は原作を読んでいないので、ここでは「ドラマ」としての
「魂萌え!」を語らせていただく。

おもしろ――――っい!!!!!!

配役、脚本、演出、もうすべていい!!

だいたい考えてみれば、原作の筋はよくある話だということがわかる。

友人の紹介で知り合い、お互い激しい恋を経ないで結婚した夫。
男女一人ずつ子供を授かり、つつましくも平和にくらしていた。
それなりの波風はあったろう。
それでも夫は定年まで勤め上げ、退職した日には
「これは母さんにだな・・」と、職場のみんなから贈られた花束を妻に手渡す。

その夫が、退職後、趣味と称して「蕎麦打ち」教室に週一度通いだす。

そして、夫の急死。

十年近くも前に勝手に家を飛び出してアメリカにいった長男は、
嫁と二人の子供をつれて帰ってくる。
一人暮らしをしている長女は、コンビニでバイトをしながら
バイト仲間の年下の男の子と付き合っている。

葬儀が終われば、長男は家を自分のものにしようと画策し、
長女と遺骨の前で怒鳴りあう。
励ましてるんだか、傷つけてるんだか分らない、学生時代からの友人たち。

ふとしたことから発覚した夫の不倫と、愛人との対決。

まあ、ほんとにありがちなことである。

さて。

こういうモチーフで書かれた小説、そのドラマ化というのは、
もう数え切れないほど世に送り出されてきたと思う。
私が見た中で非常に印象に残っているのは、
向田邦子の「阿修羅のごとく」だ。

このテーマで、安っぽく作り上げないようにするには
作り手と役者の力量が、非常に試される気がする。

「阿修羅のごとく」は大成功だった。
今回の「魂萌え!」もかなりの成功だと思う。

人生は悲劇だけでもなく、喜劇だけでもないのだと思う。
悲劇を横から見たら、なんだかおかしく
喜劇を斜めから見たら、切なくて泣けてくる―
そんな感じなのではないだろうか。

このドラマでは、私は何度も爆笑した。
おなかがよじれるほどに笑った。
そして、何度もしみじみとした。ほろり、とさせられた。

主人公と、彼女を取り巻く人々の
可愛らしさ、みっともなさ、、意地汚さ、愚かしさ、いじらしさ、
ずるさ、いちずさ、どうしようもなさ・・・

芸達者たちが、しっかりと演じてくれている。

冒頭、「荒ぶる魂」のことを書いた。

主人公は、夫を亡くしてから、あらゆるものと戦っていく。
どんどん強くなっていく。

戦いは、何も切った張ったばかりではない。

女二人が静かに対面しつつ、それぞれが真剣を握って相手の心臓を一刺ししようと
息を詰めているときもあるのだ。

おっとりとした外面で、落ち着き払って勝負をするときもある。
エプロンかけたままの真剣勝負もあるのだ。

主人公はそのどちらの勝負も、自分の知恵と力で戦った。

彼女はこれからも、自分の足でしっかり歩いていくんだろう。

「いいドラマを見たなあ」と思った。

「魂萌え!」というタイトルは賛否両論のようだが、私は好きだ。

魂が、今芽吹かん!としているのだ。
素晴らしいではないか!

芽吹くのは春だけではないのだな・・と、思う。
青春の若者たちの特権ではなかったのだと、思わせられる。

私は、「いくつになってもお若くて・・」とか
まして「アンチエイジング」なんて言葉は大嫌いだった。
若いことがそんなにいいことか?
なんでそんなに実年齢よりも若く見られることに必死になっているのだ?
と、思ってきた。

若さを未熟さの代名詞にたとえたのは、かの小林秀雄だが
どちらかというと私もそう思っていた。

でも、このドラマを見て、「歳をとってからの芽吹きもいいな」と思えてきた。

魂(たましい)という言葉も、私は大好きだ。

ほんとにとっても面白いドラマでした。私は大好きです。


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