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覚書「ナイルパーチの女子会」柚木麻子 [本]

うーん・・これはねえ、ないよ(笑)

作者が、この御本についてインタビューで、「(登場人物の)栄利子も翔子も、正気の人間として描きたかった」ということを話しておられた。
お気持ちはわかる。
確かにふたりとも「正気」なんだというのも、わかる。
ただ、ともに、深い病理を抱えている。

ええと、ですねえ・・
何が「無い」のかといえばですねえ・・

まず、翔子のブログがちっとも魅力的じゃない。
あのブログがランキングで上位にいくなんて、とてもとても思えない。
お気楽な奥さんの、ひょうひょうとした毎日を綴っているブログが、それでもすごく人気が出るとしたら、何か強烈な魅力があるはずなんだよね。
それが無い。
何度も引用されてるけど、ほんとつまんないの。

で。
栄利子。
この人は「正気」だけれど「病気」です。
精神のどこかが、幼児のままで止まっている。
栄利子がどうしてそんなに「同性の友達」に固執するのか、最後まで理解できませんでした。
確かに、彼女に友達はできないだろうなあ・・と思うし、だからこそ渇望するのはわからなくもないんですが・・彼女には、「自分は優秀な人間なんだ!!」という錯覚があり、
「足りないとしたら、それは女友達だけ・・」という思考回路になってるのもわかるんですが。

そしてですねえ・・
栄利子が勤めているのは、日本最大手の「商社」とのこと。
ええと・・日本最大手の商社にも、霞が関にも、教育者にも、どこにでも「人間的にどうかと思う人」はいます。それは、職種や学歴や成育歴とは関係が無い。

でも、この本に描かれている「日本最大手の商社」の社員たちは、みんなバカみたいなんですよ。頭悪すぎ。
あきれるほどに無能。

でもって、その「日本最大手の商社」に派遣社員としてもぐりこんだ女、真織。
んー・・・
最大手の商社の事務作業は、かなりなスキルを求められると思いますよ。
真織にそれだけの能力があるようには、とても思えませんでした。
そして、そんな真織に騙されて結婚させられた男。
こんなバカいないって。
いや、可能性はゼロじゃないけれど。
もしも、何かの間違いで、こういう女に引っかかって結婚する羽目になったとして、
給湯室で芋けんぴぶっさされたり蹴っ飛ばされたりして、それで怯えてるだけの男って、あんたバカなの?
ほんとにそんな状況になったら、日本最大手の商社に勤める頭脳と人脈フル活用して、
そんな女さっさと切ればいいだけの話。なにしてんだよほんとに・・

登場人物がみんなバカみたいなんですよ、ほんとに。

栄利子が真織に、「あたしの彼と寝た」と恐喝されて、「営業部の男全員と寝ろ」と言われて従うとか。
あのさ、栄利子が寝たのって、別に入籍前だよね?だったらなんの問題もないじゃん。
うっせーこのやろー!!! でいいんですよ。

本の中では、わざわざ「東電OL」を出してきたりしてたけど、栄利子は全く違う。
東電OLの、死の淵ぎりぎりに立ち続けた凄味なんて、栄利子にはかけらも無い。

そしてですね、真織は性格に多々問題ありだけれど、自分と同じような境遇の女友達には感謝しており、彼女たちの幸せを願っている。
結婚式には彼女たちを呼んで、いい出会いを作ってあげたいと思っている、という箇所。
だからさ、選ばないんだよ。
真織はたまたまバカな男をだまくらかすことに成功した。
でも、そこに勤める男たちが、もし自分と学歴や環境の違う女たちを伴侶に選ぶとしたら、それは一重に「その女の人に魅力があるから」なんだよ。
心根の優しさや、一所懸命さや、忍耐強さや、学歴とは違う賢さや、そういうところに惹かれて行くんだよ。
そういうことが分かっていない時点で、真織はアウト。
そもそも派遣先であんな大立ち周りを演じたら、ふつう派遣先から派遣元にクレームがいって、切られる。

会社の描写も、「日本最大手の商社」にはとても見えませんでした。
よくある中小企業の中のお話みたい。

作者が、日本の会社組織について(大小かかわらず)、あまり理解しておられないように感じました。
例えば、信用金庫の中で、高卒のベテラン女性社員が孤立していく過程は、桐野夏生氏の「OUT」にとてもよく描かれています。ああいう現実味が、まるでありませんでした。



最後に。多分伝わらないだろうけど、栄利子に。

あのねえ、ともだちなんていらないんだよ。
みんな一人で生きてるんだよ。
ともだちなんて、「作ろう」と思って出来るもんじゃないんだ。
気が付いたら横にいるんだよ。
あんたはただ、一所懸命生きてればそれでいいんだよ。

職場なんてね、砂漠なんだよ、砂漠。
みんな裸足で、どこが終わりかもわからない焼けた砂の上を、たった一人で歩いて行くんだよ。
あんたが必死で歩いている時、誰かがあんたを助けてくれるかもしれない。
自分も足の裏を焼きながら、あんたを助けようと手を伸ばしてくれるかもしれない。
それが友達なんだよ。
それまでは、一人でいることに耐えながら、歩くしかないんだ。
それからねえ、仕事も職場も戦いなんだよ、戦い。
一発殴られたら、三発殴り返すんだよ。
職場には、お父さんもお母さんもいないよ。
味方なんて誰もいない。
全員を敵に回してもそこで生きるんだ。
あんたに噛みついてくる奴がいたら、あんたもそいつに噛みつき返すんだよ。
食らいついたら最後、そいつの肉を食いちぎるまで歯を食いしばって耐えるんだよ。
あんたが居る「日本最大手の商社」は、本来そういうところじゃないのかね?

あんたは、自分で思ってるような優秀な人間でも、美しい人間でも無いんだ。
人の気持ちがわからない、他者との距離の取り方がわからない、自分本位な困った人間なんだよ。 それだけ。




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吉田松陰 高須久子 相聞歌 [本]

鴫 立つてあと淋しさの夜明けかな  久子

   いつの間にか、此処を訪れてくれるようになった鴫が
   何処かに行ってしまいました。
   今までは、朝方に目が覚めると、
   もう傍に来ただろうか、可愛らしく木の葉を啄ばんでいるだろうかと
   思いを巡らすだけで、心が高鳴りうれしくなったものでした。
   もうそれは終わりました。
   ただしんとした、味気ない、寂しい一日の始まりとなりました。



箱根山越すとき汗の出でやせん君を思ひてふき清めてん  松蔭

   死出の旅となりました。
   箱根の山を越えて行くとき、息は乱れ、吹き出た汗が体を伝うことでしょう。
   あなたが縫ってくれたこの手布巾で、その汗を拭い、
   恥ずかしくないように、死出の身体を清めていきましょう。

      (久子)
      あなた様とは、交わることも、触れ合うことすらありませんでした。
      幼い頃から一筋に学問に打ち込んでこられたあなた様は、
      女と肌を重ねたこともございませんでしたでしょう。
      私の手の中で、一針一針縫い上げたこの手布巾には、
      私の香りが微かに染み付いておりましょうか。
      此処を出られ、長い道中、どうかこれを
      あなた様の懐に、収め置いてくださいませ。
      あなた様の懐で、この手布巾は温められ、
      あなた様の匂いを染み付かせ、
      滲んだ汗を吸い取って、潤うことでございましょう。
      この手布巾はわたくしです。
      最後まで、わたくしは、あなた様のすぐお傍に、控えております。



手のとはぬ雲に樗の咲く日かな  久子

   あなた様の旅立ちの朝、空を見上げれば
   真白き雲に、樗が枝を広げております。
   なんと清しく、気高く、飾ることなく咲いておりましょう。
   もうわたくしがどれだけ手を伸ばしても、届くことはありません。
   今生のお別れでございます。
   わたくしはずっと、清しく気高いあなた様を、お見上げいたしております。



一声を いかで忘れん ほととぎす  松陰

   ここであなたと交わした言葉の一つ一つを、
   その時の空の様子を、吹いていた風のそよぎを
   どうして忘れることができましょうか。
   いいえ、忘れることなどありません。
   二度と再びお目にかかることはありません。
   決して声には出さないけれど、
   ここを懐かしみ呼ぶでしょう
   あなたのことを呼ぶでしょう
   喉が切れて血が出てもなお呼ぶでしょう
   血を吐いて啼く、私はほととぎすになりましょう



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三島由紀夫「豊饒の海」 その一 [本]

「豊饒の海」三島由紀夫 その一 


鉛色の空から、雪片が舞い降りてくる。

樹木、道路、ツイードのコートの肩、若い女の垂れ髪。
それぞれに降り立ったところで、留まる時間はあまりに短い。

ふと気がつけば、今ここにあった雪のかけらはもはや無く、
水が残っているだけだ。

人の一生も、雪が空から舞い落ちて、どこかに留まっているそれほどに
短いものかもしれない。

そもそも降ってきたのは本当に雪だったのだろうか。
今ここにある、あの水のままで落ちてきたのではないのか。

物事の存在も不確実になる。


在ると思えば在り、無いと思えば無い。
誰かの意識の中でのみ、何かは存在する。


「豊饒の海」という長い長い物語の最後の情景は、
「仮面の告白」の最後とも重なる。

そこにあるのは夏の日ざかりの情景である。

三島の小説を読んでいると、この「夏の日ざかりの」という表現に
何度も出会う。

この情景を、三島本人がインタビューで語っている。

終戦の詔勅を、三島は親戚の家で聞いた。
戦争が終わったら、あるいは戦争が負けたら、この世界が崩壊するはずであるのに
まだまわりの木々が、濃い夏の光を浴びている。
そばには家族の顔があり、ちゃぶ台があり、日常の生活がある。
それが不思議でならなかった。


この、濃い夏の光を浴びた世界は、三島の原風景であるように思う。

そこで終われるはずだったのに終われなかった人生。
今まで自分が信じてきた確固としたものが、消え失せた瞬間。
「在った」と信じていたものが、実は「無かった」と示された時。




「豊饒の海」四部作は、三島が仕掛けた壮大な謎である。

その正解を知っているのは、すでにこの世にいない三島由紀夫ただ一人だ。


第一部「春の雪」の主人公は、松枝清顕。
清く「あらわれる」青年。
友人本田は、彼を見ている。
そう、本田は「見る」人なのだ。

清顕、勲、ジン・ジャン。
輪廻転生する彼らを見続ける。
傍観者であり、主人公ではないと自身は認識している。

見る。

本田は様々に見る。

青年の一途さと不器用さで。
社会的地位を得た男の自信と狡猾さで。
そして卑猥で滑稽な「覗きの常習者」として。


見る男がもう一人いる。

老年に達した本田が、最後に見つけた輪廻の主人公、透。

彼は毎日船を見ていた。

遥か水平線から姿をあらわす様々な船。

勤勉に、誠実に、彼は海と船を見続けた。



しかし物語の終盤で、透は「見る」ことが不可能になる。
そして最後の最後、本田は今まで見てきたこと全てを否定される。

彼が八十年の生涯で見続けてきたものは、全て幻だったのか。

答えはわからない。

本田は「夏の日ざかりの」庭を「見ている」。
記憶も無い、何も無い。
そもそも目の前のこの日ざかりの「庭」は実在しているのか。
それ以前にこの自分は、本当に今此処に「存在」しているのか。

「豊饒の海」という、生命と可能性に満ちたタイトルの元になったのは、
月面に存在する、一つの大きなクレーターの名称である。
そこに豊饒さはかけらも無い。
何も無い、のだ。



三島が成したこの巨大な物語の深層を全て読み解くことは、とうてい私には出来ない。
それでも、稚拙に感じたこと思うことを、少しずつ、折々に、記していく。



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百田尚樹「殉愛」その二 [本]

人と人との関係は、男女であれ、親子であれ、友人であれ、
当事者にしか分からないと私は思っている。
仲良さそうに見えても嫌いあっている人たちも居るし、
憎みあっているのかと思えば好きあっている夫婦もいるし、
憎しみと愛情が入り混じっている夫婦はごまんといると思っている。

配偶者がいても、別の異性を好きになることはある。
これは十分に理解できる。
その両者をともに思うがために苦しむこともある。
これも十分にわかる。

親子ほど歳の違う人を好きになることも、
さほど好きではなかった人のことが、時間とともに
抜き差しならなくなるほど好きになることがあるのも、わかる。


なので。
やしきたかじんという人の最後の妻が、献身的に彼に寄り添い、
看病し続けたということは、在り得ることだとは思う。
世の中が言うほど、人は「お金のためだけに」動くわけではないと
私は思う。


ただ。
百田氏は自身のツイートで、「妻さくらさんの、結婚離婚の事実を書かなかったことは失敗だった」と書いておられる。
それは違う。
百田氏の間違いは其処ではない。



かつて、瀬戸内寂聴氏が本格的に文壇にデビューしたとき、
その作品をめぐり、「ポルノ扱い」され、「子宮という言葉が何回出てくる」などと面白おかしく取りざたされ、徹底的に叩かれた。
そしてそれから五年間、氏は干されることとなる。
瀬戸内氏は怒り、作品の掲載先、新潮社に
「反論記事をかかせてくれ」と直訴した。

その時に、編集長から言われるのだ。

「作品を発表するということは、作家としての、暖簾を掲げたこと。
暖簾を掲げて物を売れば、いろんなことを言われる。
まずかったと、商品を付き返されることもある。
そんなことは当たり前だ。
まだまだ駄目だな」
と、いうようなことを。


つまりそういうことなんじゃないだろうか。百田さん。

Amazonのレビューを、日々、拝見してきた。

その人たちは、「百田尚樹」という暖簾を掲げたところから商品を買った。

読んだ。

感動したという人もいれば、不自然だ嘘臭いという人もいる。
もっとこうするべきだったんじゃないかと提案する人もいるし、
もう百田の本は読まない、という人もいる。

なんでその人たちが「人間のクズ」呼ばわりされねばならぬのだ?

本屋で購入したにせよ、図書館で借りたにせよ、とにかく自分の作品を読んだ人と達の意見に、どうして謙虚に耳を傾けないのか?
それは誤解だというならば、「自分の書き方に誤解を生む表現があったかもしれない」と反省はできないのか?

何故、率直な意見を述べた人がクズなのか?


「金スマ」に百田氏が出演されたのを、遅まきながら見た。

失礼なことを言います、ごめんなさい。
私は何度も涙を流す百田氏をみながら、バカじゃないの?と思った。


百田氏は、お身内の看病をなさったことがお有りか?
かけがえの無い人を、看取られたことはお有りか?

どうか生きてくれ、または、せめて苦しまないでくれと
祈りながら、自分の命を削りながら、看病している人たちをご存知か?


この本の広告で、やしきたかじん氏の主治医が
「私はこんなに献身的に看病する女性を今まで見たことがないし、
これからも見ることはないでしょう」と語ったといわれている。

このことを知ったとき、私は強いショックを受けた。
これがもし本当なら、聖路加に失望すると思った。

この言葉は、主治医が過去にめぐり合った看病する人、
これからめぐり合う看病する人に対する侮蔑である。
この医師が担当している家族は、
「自分の看病を、先生はそんなふうに思っていたのか。
この必死の思いを、看病を、先生はわかってくれていなかったのか」
そう絶望するだろう。

冷静に考えて、医師はそんなことは言わない。
自分の言動の影響力の大きさを、医師たちはよくよく知っている。

看護師達の発言もおかしい。
献身的に看病する妻のことを、
「私たちも最初は、あの女の人はお金目当てなのかなと思っていました」
「でも途中から、お金目当てではあそこまでは出来ないと、皆思うようになりました」
と言ったとのこと。

こんな卑しいこと言ってる看護師達がいるのか?
しかもそれを口外してはばからないのか?
「私たち最初、お金目当てだと思ってました」と言のか?

術後のICUの状況も、常に医師や看護師が巡回し、
様子を確認しているだろう。
せん妄状態になれば、その対応をする。
別にICUの中に、たかじん氏と妻だけの二人が居るわけではない。

70度のお湯で熱いタオルを絞らなくても、
熱々のタオルは看護師に言えば持ってきてもらえる。
手のひらの皮が剥けてしまったら、感染症の危険かあるから
ICUに入れないのではないか?
手の皮がずる剥けになった状態で、どうやって看病を続けたのだろうか?

実名を挙げられた、国際医療福祉大学三田病院、聖路加国際病院は、
正式に抗議していいレベルの話だと思う。
医療機関の根本に関わることだ。


奥様が看病された二年間、ずっと「あと数週間です」という状態ではなかったのだろうから、その間24時間の記録をつけるほどには、緊迫した状況ではなかったのではないか?
もちろん、「全てを記録しておきたかった」という気持ちがあることは理解できる。


大事な大事な人が亡くなったら、遺された人はたいてい自分を責める。

もっとああしてやればよかった、こうしてやればよかった、
ああもしてやれた、
疲れていたとはいえ、何であんなことを言ってしまったのか・・

遺された人間は、悔い、悔い、悔い、の日々が続くのだ。
どんなに力を尽くして看病しても、必ず「悔い」は残る。

まして亡くなって一年も経っていなければ、
「どうか自分のことを”天使”などといわないでほしい。
自分の努力はまだまだ足りなかった」と思う。
それは傍から見て、「あんなにがんばったじゃないですか」というのとは
違うのだ。

もう叶うべくもないと思うが、百田氏には、もう一度
Amazonのレビューをお読みいただきたい。

読者は悲しんでいるではないか。
「あなたの本だったから期待して読んだ。だけどこれは駄目だ」
「永遠のOには泣いた。だけどこれには全く泣けなかった」
「今まで百田氏の本は全部読んできた」
そういった人たちを、あなたは「人間のクズ」と言うか?

やしきたかじんが大好きだった、
生前たかじんさんにお世話になった
そういう人たちも悲しんでいるではないか。

その人たちも「クズ」なのか?


たかじん氏に、何十曲もの詩を提供した人に「売名行為」と言うか?
それがどんなに無礼なことはおわかりか?


百田氏の周りに、注意を促す人はいなかったのだろうか。
ここはおかしいですと、言える人間はいなかったのだろうか。

だとしたら既に、裸の王様だったのだ。



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百田尚樹「殉愛」 [本]

いつもは、twitterとブログは別のものとして考えてるんだけど、
この件に関してはものすごく嫌な気持ちが続いているので、敢えてブログにもまとめておく。

**twitterまとめ**

しつこく書くけど、百田尚樹氏の「殉愛」。私は馬鹿がつくほど素直なので、書かれてあることは全て真に受けてしまう。でも、聖路加の主治医のことば「私はこれまでに、こんなに献身的に看病した女性を見たことが無く、これからも見ることは無いでしょう」って、これホントに言ったの?

通常お医者さんは、看病する家族に優劣をつけるようなことは言わない。まして、聖路加の先生だ。お医者さんは、壮絶な看護も、壮絶な闘病も、日常的に見ている。私でさえ、難聴になった?それがどうした!手のひらの皮が剥けた?それがどうした!と思うけどね。

「殉愛」って・・押しつけがましいな・・愛ってもっと寡黙だよね。ただただ大事な人の苦しみが無いように、命を削って祈り行動するよね。わたしはこんなに尽くしたんですなんて、話そうとも思わないよ。助けてあげられなくて、楽にしてあげられなくて、ごめんね、ごめんね、って自分を責め続けるよ。

ホントに大切な人がもう助からないって言われて看病してたらさ、耳が聞こえなくなろうが手の皮が剥けようがさ、別に全然かまわないよ。あ、耳が聞こえないのは最後の言葉が聞こえなくなったら困るけど。それで大事な人の苦しみが少なくなるなら、私自分が死ぬまで手の皮剥けててもよかった、



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百田尚樹「殉愛」の広告について [本]

** twitterまとめ **

昨日からすごく気持ち悪いので書いておく。百田尚樹氏の「殉愛」。紹介記事に主治医である聖路加国際病院の医師の言葉がある。「長い間医師をしてきて、これほど献身的に看病してきた女性を私は見たことが無く、今後も見ることは無いでしょう」もし本当にこの発言があったなら、私は聖路加に失望する。

かけがえのない人が病んでいるとき、死に向かうとき、皆、自分の命を削って看病する。命を削っていることすら、本人は気付かない。「どうかよくなるように」「どうか少しでも苦しみが無いように」と、精神が破綻する寸前の状態で世話をし、付き添う。

そういう人たちを数え切れない程見てきた医師が、「これほど献身的に看病した女性を見たことがない」というのは、これまでに出会った看病する人たちへの侮辱である。

この本の広告には、「なまじな愛ではなかった」と書いてある。間違ってもらっては困る。なまじな愛など、この世には無い。なまじでないものを、「愛」というのだ。




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瀬戸内寂聴「死に支度」 [本]

瀬戸内寂聴氏が著書「草筏」のなかで、
これが自分の最後の私小説になるだろうと書かれてから、早二十年以上が過ぎた。
「草筏」の、働きに働いて旅先のベッドに倒れこみ、脂汗のような涙をこぼしていた主人公は、「死に支度」の中で91歳になっている。
かつてどんな編集者よりも早く歩き、彼らをあたふたさせていた筆者は、数年前の圧迫骨折から体が弱り、駅や空港では車椅子を使うようになっている。


91歳の誕生日まであと一月ほどという時、五十年以上を筆者の下で働いてきた女性を含め、古参の女性達がいっせいに辞める。

その女性達や、瀬戸内氏と深い縁のあった人たちとの思い出と、現在の瀬戸内氏の日々の暮らしが混ざり合って進んでいく。


寂聴氏は人を褒められるのがとても上手い。
誰かを褒めている文章を読んでいると、こちらもとても心地よくなる。この御本でも、そういう箇所はいくつもある。

長く勤めていた人たちは、食事の支度、身の回りのお世話、会計関係と、それぞれに分担が決まっていたようだ。その一人一人が皆、有能で、誠実に自分の仕事に取り組んでいたことがよく分かる。

又、一人残った新参者の「モナ」が、孤軍奮闘というか寂聴氏との二人三脚というか、とにかくしゃにむに頑張ったのであろうこともよく伝わってくる。

このいかにも現代っ娘の秘書は、こちらがハラハラするようなことを言ったりしたりするのだが、寂聴氏のことが大好きで、その長寿を泣くような気持ちで祈っている。


寂聴氏はかつて、「よい文章は読まなくても分かる。活字が立ってるの」と述べておられた。

それは何となくだがわかる気がする。

寂聴氏のご本は、いつも活字が立っていた。

感受性は鋭いナイフのように磨き抜かれ、それ以上無いほど的確な言葉によって紡ぎ出される文章は、実に切れ味が良かった。

このご本では、寂聴氏がとてもリラックスしているように感じる。

「活字」を「米」に見立てるならば、たしかに一粒一粒がよく立っているけれど、
固めに炊いたご飯ではなく、水分を幾分多めに、ふっくらと炊き上がったご飯のようだ。
口に入れるとまろやかで、甘味があって暖かい。


寂聴氏のご両親も、お姉様も、もう亡くなられて久しい。
寂聴氏がその人たちのことを書かれているのも、もう何度も読んできたはずだが、今回書かれたもので、又私は泣いた。

今となってはようやく笑い話にさえなってくれたお父上の死に至るところも、
その娘を思う心を思い、弱った体で「馬鹿な娘のためにもう一働き」と立ち上がる情景を思い浮かべ、やはり泣いた。

ここに描かれたどの人の臨終も、それぞれに深く胸に届く。

特に、姉上の死後に見つかった、歌集の後書きは胸を打つ。

世の中では、瀬戸内氏は情の濃い、烈しい女と思われている。
けれどその姉上の、一見平凡な女の一生にこそ、もっと烈しい女が潜んでいるように思う。

世間から徹底的に攻撃されて、したいように生きた妹を常に見ながら、
この人の中にも、発したい思いや言葉があった。
押さえても押さえても溢れてくるその思いや言葉たちを
渾身の力で抑え込みながら、家族の世話をし、近所の付き合いをし、日々を暮らしていった。唯一感情を発露させたのが、短歌の世界だった。
残された短歌には、押さえつけても溢れ続けた思いが表れていた。


結婚できない人と付き合っている妹に、「どうしてもその人の子どもを産みたかったら産みなさい。私の籍に入れて、私が育ててあげる」と言った。

寂聴氏と姉上には、同じ血が流れていたのだ。



その姉上の死を描いた「私小説」を思い出した。

姉上が亡くなり、その息子との会話が出てくる。

「あんたも今回で、小説なんてそうそう本当のことは書けないんだってわかったでしょ」
というようなことを、寂聴氏は言うのである。
それは姉上の戒名を巡るエピソードなのだが、「私小説」と言うタイトルの
私小説と分類される小説の、ある意味で根幹を見たような気がした。


この本の中で寂聴氏は、時々はっきりと、先立った人たちの霊魂が側に来るのを感じると書いておられる。それはとても暖かく、気持ちも体も癒されるものだという。

本当のことを言うと、私はここ数年、死後の世界は無いように思えている。

例えば母が幽霊にでもなって出てきてくれたらどんなに良かろうかとは思うが、
一向にその気配は無い。
もし出てきてくれたら、「大丈夫だった? もう苦しくない? 元気にしてた?」
と問いただしそうだが、「あ、そっか。死んでるから、痛いも元気も無いんだ」と思い至る。
「あのスーパーは、だんだん品揃えが悪くなっちゃったんだよ」とか
「いまは100円均一で、こんなに可愛いものもたくさん売ってるんだよ!」とか
「そこで手芸用品も、こーんなにたくさんあるんだよ! いっしょに行こうね!!」とか
そんなことを言いそうな気がする。

でも、そういうことなら店で商品を見ながら脳内で言っているような気もして、
「なんだ、じゃあ生きてても死んでても同じじゃないか」とも
「いや、やっぱり体が在って話しが出来るのとは違うんだよね」とも思う。

そもそもそんなにはっきりは意識せず、ほぼ無意識でいる。

私にとっては、「母が死んでいる」ことが通常となった。



瀬戸内氏のことを慕い、氏もその人のことを気にかけ愛情を注いでいる人たちに囲まれているが、瀬戸内氏には誰にも立ち入らせない心の部屋がある。

よって、どんなに賑やかに過ごしても明るく振舞っても、怖ろしいほどに孤独なまなざしをしていることがある。
それを、モナは気づく。

この「孤独」が無ければ、作家瀬戸内寂聴は成り立たない。


書くというのは、どういうことなのだろう。

作家というのは、なりたい人がなるのではなく、書かずにはいられなかった人たちがなるのではないか。

誰かを傷つけ、世間から非難されても書かずにはいられなかった。
ただそれだけのような気がする。


九十二歳の寂聴氏の明日も、六十六歳年下のモナの明日も、私の明日も、誰にも分からない。
それこそが恩寵であると思う。

今まで読んだどの寂聴氏のご本よりも、声をあげて笑った。
そして、泣いて、泣いて、泣いた。




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角田光代 [本]

テレビの顔面に原田知世が現れ、BGMが流れただけで、彼女の心の空洞が伝わってきた。
NHK「紙の月」。

こちらの方が先だったかな? 書店の入り口にポスターが貼ってあった。
正面から見た原田知世。
彼女は自分の首を絞めている。苦しそうな表情と、左手薬指の結婚指輪。
「角田光代っぽいなあ」と思ったら、角田さんの原作だった。「紙の月」。


事業を成功させたとか、ものすごい美貌の持ち主とかではなく、
「どこにでもいる普通の」と形容される女の人たちを、角田光代はよく取り上げる。
「どこにでもいる普通の」女達は、当然ながら一人一人みな異なる人生を歩んできて、
異なる思いを持っている。

十把一からげにされがちな女達は、それぞれ自分の物語を持ち、喜びと悲しみを生きている。
それを丁寧にみつめ、心に寄り添い、書き記しているのが角田光代。



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宮本輝「流転の海」 [本]

宮本輝氏の「流転の海」シリーズを読んでいる。
この人は初期の作品の方が面白い。

「流転の海」はお父上のことを書かれたと知っていたから
ずっとずっと逃げてきた本だった。
もう読んでも辛くないかな・・と思って読み始めたが、
心配は杞憂に終わり、毎日げらげら笑いながら読んでいる。

お父上をモデルにした松坂熊吾は大変に魅力的で
山田詠美氏は「本気で熊吾に抱かれたい」と言ったそうだが、その気持ちはよくわかる。
一人一人の登場人物が、それぞれに強烈な個性を持っていてチャーミングに描かれている。

宮本輝氏は、物語の作り手としては稀代の人だ。
そしてユーモアの盛り込み方が実に上手い。
あまり書くとネタバレになるけれど
熊吾が房江にダンスを教えるときの「アンドゥートロワ」の説明とか、二人の描写とか、
熊吾が伸仁に話す「雀の話」とか、
伸仁が祖母を「磁石」でからかうところとか、とにかく笑えて笑えて仕方がないところがたくさんある。
そもそも熊吾がユーモア溢れる人らしく、この人の発する言葉がすごく笑えるのだ。
その笑いは決して嘲笑ではなく、こちらを安心させる笑いなのである。
名前のようにとても器の大きな人だなあと思うのだが、
この人がだんだんに堕ちていくのかと思うと切ない。
第一部の最後、熊吾の目の下に作った傷から血が流れ
まるで血の涙を流しているようだというエピソードが、不吉な予言のように残る。

ところどころに首を傾げたくなる筆者の持論のようなものも感じるのだが、
それでもやはり、ものすごく面白い。


人が人の痛みを知るには、結局のところ自分が傷を負い、ぱっくり開いた傷口から
大量の血を流すしかないんじゃないかと思う。
熊吾が、まだ赤ん坊の伸仁を、どうやったら他人の痛みがわかる
芯から心の優しい人間に育てられるだろうと考え、
「結局苦労をさせるしかない」と考え至るわけだが、やっぱりそれしかないのだと私も思う。


宮本輝氏が見てきたものは、愛するものの「死」なのだと思う。
大人が抱えた借金の苦労や仕事の苦しみではない。
大人になる前、「子ども」時代に経験せざるをえなかった「不安」と「恐怖」と「愛するものの死」。
そしてその予感が作家宮本輝を作ったのだと思う。

母親が自殺を図り、処置を施されて眠り続けた夜。
一晩かかって押入れの中で「あすなろ物語」を読み終え、
朝を迎えたのと同時に母の命が助かったことを知らされたその時、
作家宮本輝はその小さな一歩を踏み出したのだと私は思っている。

大きな大きな父上が徐々にやせ細り、脚も立たなくなり、最終的には田舎の精神病院で息を引き取るまでの間、宮本氏はおそらく誰にも話していない屈辱を散々に味あわさせたことだろう。
死ぬほどの恥ずかしさを、繰り返し耐えてきたことだろう。
残念だけれど、そういう体験しか本当の優しさなど作りえないと私は思う。
あくまで私の考えでしかないが。

亡くなられた父上の枕元で、「父ちゃん、敵は俺がうったるで」と誓ったそのかたきは
もう十分にうてたのではないだろうか。

父上と母上は、宮本輝という作家をこの世に送り出した。
それだけで偉業であると私は思う。



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宮本輝 [本]

今、宮本輝氏の「優駿」を読んでいる。
十何年ぶりに手にした宮本氏の本である。

この人は本当に上手い。
何が上手いと言って、物語の作り方が実に上手い。
登場する一人一人が際立っている。
そしてそれを、平易な文章で紡いでいく。

平易だけれど宮本氏の文章はつまらなくない。
厚みとリズムと慈しみがある。
「哀しみ」と言ってもいい。

どんなに努力を重ねても上手くいかないことがあり、
どれだけ美しい心を持っていても蔑まれる人がおり、
人生を賭けて祈っても、叶わぬことがあると教えてくれる。

しかし又、ある日ある時、無駄になったと思っていた努力が
魔法のような再構築を成し遂げ、誰かの目にとまり大きな成果となることも描く。
心だけがきれいな、外貌はさえない人間が、人生の最終幕で
思いもかけない幸せを手にすることも紹介する。
叶わぬはずの祈りが、叶うこともあるのだと、そっと書き記す。


十代の終わりから二十代の前半。
この人たちが居てこの本を書いてくれたから、私は生きてこられた
と思う作家達がいる。
宮本輝氏もその中の一人だ。

宮本氏はご尊父がかなりお歳を召されてからの子どもだったはずだ。
いまどき流行りのくだらない言葉でくくれば、ご尊父は「負け組」の人生だった。
晩年体が利かなくなって入院する。
けれど本当に手がかかるようになったとき、受け入れてくれる病院はどこにもなかった。
そこで家族は唯一受け入れてくれた精神病院に、ご尊父を入院させる。

危篤の報を受けて宮本氏はその病院に駆けつける。
病室に入りご尊父の傍らに行くその数十歩のうちに、
まだ少年の宮本氏は「人生のことが全てわかった」と思うのである。

そして息を引き取られたご尊父に、
「お父ちゃん、かたきは俺がうったるで」と、誓う。


まだ十代の少年が何を言うかと思う人もおられよう。
けれど私はその文章を読んだとき、
「私にはわかる」と思った。

不遜か否かではない、「わかった」と思ったことは事実なのだ。


宮本氏の文章で、もう一つ、大変印象的だったものがある。
川三部作の中の一冊。
かつて女房を寝取られた男の前に、寝取った男が現れる。
時は流れ、寝取った男は今占い師になっている。

お互い相手に気づいてはいるが、そのそぶりは見せずに会話する。

「私のこれからの人生を占ってもらえますか?」

「はい」

「これから幸せに暮らしていけるかを、占ってください」

「幸せとはどういうことですか?」

問われた男は、
「そりゃあ悲しいとか苦しいとか思うことが少ないことですよ」と答える。

しかし少しだけ考えて言い直す。
「悲しいとか苦しいと思うことがあっても、それを乗り越えていけることです」


宮本氏の小説には、侮蔑される側の人間がよく登場する。
蔑まれる理由はくだらないことだ。
彼らが貧しかったり、粗末な身なりをしていたり、そんな
人間の本質とは何らかかわりのないことだ。

人は簡単に他者を蔑む。
蔑まれた者の、耐えるしかなかった悔しさを、心が踏みにじられる恥ずかしさを、
宮本氏は描く。
そして、蔑み続けた人間が、ある日蔑まれる側に変わる人生の不思議を、
これもまた、平易な文章で描いてゆくのである。


「優駿」は、一頭の競走馬を中心に、その周りの人間達のことが描かれる。
一章を終えるたびにその章の主人公が変わる。
ゆっくりと回る巨大な観覧車のように、登場人物は私の目の前に現れて
離れていく。
観覧車のように時はゆったりと流れ続け、留まることが無い。
さっき下の方にあった赤いボックスがいまや頂上近くまで上り、
かなり上にあった青いボックスは、ゆっくりゆっくりと地上に降りてきている。

この競走馬は名前を「オラシオン」という。
イタリア語で「祈り」という意味だ。

「祈り」。

ああ、人間はそこに行き着くんだなあ、と私は思った。
自分ではなく他者のことを人は祈る。

死に行く人が、どうか少しでも苦しまずにすみますように。
遠く離れてしまったあの人が、どうか今日も元気でいますように。
大事な大事なあの人が、どうか幸せでいますように。
もし今幸せでないならば、あの人が思う幸せに、どうか少しずつでも
歩いていけますように。

祈りはきっと、他者の幸せを祈るときにのみ、叶うことがあるのだろう。

人生は辛く哀しい。
そしてたまに、心底うれしいことがある。
私はそう思う。
毎日毎日楽しいことなど起こりはしない。

それでも一人一人の手に「パンドラの箱」が渡されているように思う。
パンドラの箱に入っているのは、あらゆる不幸の源である。
そしてその箱の一番奥に、ひっそりと「希望」が置かれている。

宮本氏は、その「希望」を描き続けた人だと思う。
あらゆる苦しみと、そしてそれでも決して消えなかった小さな希望を
「君の手の中にもあるのだ」と、懸命に伝えようとした人だと思う。



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